どうも、おっさんです。
久々の記事投稿です(笑)。
約2ヶ月ぶりか?
以前も、というかもう何度も紹介している為末氏のYouTube動画から(笑)。
この話、スポーツでも生きていくことでも何でもそうなんですが、ものすごく本質的なことを言っているんですけど、たぶんほとんどの人には響かないんじゃないかなぁと思います。現に、この動画のコメント欄を見てみると、それに気付いている人ってほぼいないと感じます。
為末氏が言っている通りに、「感謝する」ということの根底(本質)というのは
「全ての物事が非常にレアで興味深いものである」
ということを感じ取っている状態だということなんですよね。
これは、私が書いた記事
この辺りからもわかると思います。
私がロードバイクを走らせるのが楽しいのは、ロードバイクを走らせている全ての瞬間に対して「制御」することを「楽しい」と感じているということなんですが、これが「感謝する」ということになります。
実のところ私は、この「感謝する」という表現というか概念というか、まぁ一般的な向き合い方に対して少し違和感があります。何故かというと、私自身は「感謝」と感じていないからです。
動画内で言われている通り、有難い(有ることが難しい)から「感謝する」わけで、為末氏が言っている通りに「レア」な物事として受け取っているということですよね?
でも、私は単に目の前で起こっていることに対して「対処」して制御をしようとしているだけで、それが「有難いこと」とか「レアなこと」なんて思っていません。目の前で起こっていることに集中しているだけです。
で、為末氏はちゃんとわかっていると思うんですが、この「レア感」を表現する為に全ての物事がレアであるという表現を正確に表すとすると、全てが「普通」であるということなんですよ。
一見すると意味が分からないかもしれませんが、「全てがレア」であるならば「全ては普通」であるということにもなります。何故なら、「全てがレア」ならばレアかレアじゃないかが「無くなってしまう」からです。であれば、それは全部「普通」ということです。
つまり、有難いか有難くないかなんて「区別」はなくなった世界というわけですね。
でも、このことに気付いていない人に対しては「全てレア」と言った方がわかりやすいのでそう言っているに過ぎません。
ただ、そういうふうに表現してしまうとただ「だから感謝することが良いことだ」となってしまいます。
結局、その本質がわからなくなってしまうんですよね。
この話の本質をもっと突っ込んでいくと
全ての区別がなくなってしまう世界
ということです。
ただ単に、目の前で物事が起こっているだけの世界です。
「感謝する」ってことはその起こった物事が「有難い」と思ったからなんですが、有難いも有り難くないもなくなった世界では「感謝」とか起こりえません。
ということは、「感謝」するということを「良し」としている世界ではその本質がわかっていないということになってしまいます。
こんがらがってきました?(笑)。
簡単に言うと、「感謝」している状態というのは「感謝することが良いことだから感謝する」という受動的な状態だということです。あ、また出ちゃいましたね「受動的思考」です(笑)。
これが「主体的思考」だと、感謝するとか感謝しないとか関係なく目の前で起こっていることに集中しているだけの状態になります。これが、全ての区別がなくなってしまう世界。
「感謝することが良いことだ」という受動的な思考の場合は、目の前で起こっていることに集中できていないということなんですよ。