どうも、おっさんです。
タイトルの「努力が報われる社会」ってどういう社会だと思います?
”努力が報われる社会になって欲しい”みたいなことを言っている人を今まで何度か見たことがあるし、そういう風に思っている人って結構多いと思っているんですが。
そもそも、「努力」って可視化できるものなのか?とか、「報われる」ってどういう定義で言っているのか?とか、考えてみるといまいちふわっとしているなぁと思いました。
まぁ、要は「頑張っている人は良い人生を送れるようになる社会」ってこと。
逆に言うと「頑張ってない人は良い人生を送れない社会」ってことにもなる。
これは、”頑張っているのにちっとも良い人生ではない”という不満から生まれる。
さらに言うと、”頑張ってない人が良い人生を送っている”のではないか?という不公平感も持っているんじゃないかなと。
漫画「進撃の巨人」の作者の諌山創氏は、進撃の巨人がヒットした理由を聞かれて「運」だと言っていて、それは「自分が面白いと思うものを、みんなが面白いと思うかはわからないから」ということだそうです。
つまり、自分が描きたいと思っている漫画を読者が読みたいと思うかどうかは「運」でしかないということですね。「運」が良かったからヒットしたんだと。自分がやってみて運が良ければ上手くいくし、運が悪ければ上手くいかないだけのことだということも言っています。
いやいや、”才能があったからだ”とほとんどの人は思うかもしれないですが、諌山氏はその才能自体も「運」だと言っています。
ちなみに、アメリカ等では(キリスト教圏?)「才能は贈り物(ギフト)」という考え方があって、諌山氏が言っている通りに「運」だということです。なぜ「運」なのかと言うと、「才能」があると認めるのは本人ではなくてまわりの人だからですね。自分がやっていることを、まわりの人が認めるか認めないかは「運」しかありません。
例えば、漫画というものを一切認めない世界線があったとしたら、諌山氏のことを「才能がある」とは誰も思いません。運よく漫画を認める人たちがいる世界線にいて、諌山氏の作品を認める人がたくさんいる世の中だったから「才能がある」と認められた。という話です。
進撃の巨人の誕生秘話で有名なのが、ジャンプ編集部に持ち込んだら「これはジャンプっぽくないから別なの持ってきて」と言われたという話。この時、諌山氏は自分の描きたい漫画でないと”意味がない”と考えたそうで、別の漫画を持ち込むということはせずマガジン編集部に採用されました。
こういう部分を見ても、諌山氏は「自分のやりたいことをする」という考えで動いていて、その結果は「運」次第で自分にはどうしようもないことだという、一種の諦めを持っていたんだなということがわかります。
しかも、持ち込んだ時のマガジンの担当編集者がもし違う人だったら、進撃の巨人は世に出てなかったかもしれません。世に出てなかったら諌山氏のことを「才能がある」と認める人もいなかったでしょう。完全に「運」ですね。
諌山氏は「結局は自分が”やるかやらないか”で、何もしなければ運が良かったか悪かったかもわからない」と言っています。
諌山氏は「主体的思考」で動いています。
逆に「努力が報われる社会」というのは受動的ですね。
例えば、「努力が報われる社会」があったとして諌山氏は報われるのか?と考えてみると、ジャンプに持ち込んで落とされる理由があるとすれば「努力してなかったから」しかなくなります。
諌山氏の初期の頃の絵を見てみると「絵が上手い」とはあまり思わない人の方が多いんじゃないでしょうか?本人も絵が下手だったと言っています。その絵を見て「絵が上手くなる努力をしていない」と言えるかもしれません。
一方、マガジンの担当編集者は「絵に力がある」と評価しています。しかし、担当編集者は採用後に絵を描く練習をさせたり漫画家のアシスタントに付けたりして、画力があがるように手助けもしています。(諌山氏が今まで取り組んでなかったことをさせているということ)
もし「努力が報われる社会」だったとしたら、進撃の巨人は世に出ていない可能性の方が高くなってしまいますよね?
たぶん、これにはこういうツッコミが出てきます。
「それは自分がやりたいことなんだから例外(自己責任)だろ」
(才能の有無で決まる世界の話だろってことです)
と。
つまり、「努力が報われる社会」っていうのは「自分が”やりたくないこと”を努力してやっている人が報われる社会」ってことなんですね。
で、ここで「努力」って一体何なんだ?ってことになってきます。
まぁ、これは私が前から言っているんですが「やりたくないことを仕方なく頑張ってやる」のが努力です。よく、「好きなことだから頑張れる(努力できる)」って言ってしまいますが、それって努力じゃなくて単に好きなことは勝手(自動的)にやるようになっているってだけです。
それを「頑張っている(努力している)」って勘違いしているだけなんですよ。
諌山氏が言っていることを繰り返しますが、
「自分が面白いと思うことを、みんなが面白いと思うかはわからない」
ここに全部詰まっていると思います。
”面白い”を「好き」とか「楽しい」とか「興味がある」とかに変えてみても同じことで、要は
「自分が選択する事柄を、みんなが選択するかどうかはわからない」
ってことです。
「努力」という考えはこの逆で
「みんな(誰か)が選択する事柄を、自分も選択しないといけない」
本来、自分が選択していない事柄を”選択しないといけない”状態になっているので、「努力」する必要が出てくるわけですね。それは本来自分がやりたいことではないから。
だから「受動的」なんですよ。
主体的になると”報われるかどうか”っていう発想はなくなって、諌山氏のように自分がやってみて上手くいくかどうかという部分にしか興味がいかなくなります。
そもそも、やってみたいからやってみるわけで、それが上手くいったりいかなかったりするってことは、起こったこと全部が「楽しい」ということになります。だって、やりたいことをやっているんだから、それは楽しいってこと以外にないでしょう。
受動的だと報われれば楽しいけれど報われなかったら楽しくないわけです。
一般的に「報われる」ってどういうことですかね?これって住んでる国や地域で変わってきませんか?日本に限定したとしても都会と田舎では「報われる」の中身がだいぶ違ってくると思いますけど。人によっても違うのでは?
例えば、お金の話だと年収1,000万円以上ないと報われたと思わない人もいれば、100万円でも報われたと思う人もいるでしょう。前にも「手取り14万円」の話で書きましたが、結局はその人の考え方次第なのでは?
「努力」だって人によっては「そんなの努力の内に入らない」って言う人もいるでしょう。基準ってどうやって決めるんでしょう?議会制民主主義なんで国会で法制化すればそれが決まりにはなるわけですが、その決まりから外れたら「努力してない」ことになっちゃいますよね?ラインぎりぎりだとプレーオフ制度とかになります?
事の発端はどこにあるのかと考えると、結局「自分の事を誰かに決めてもらっている人は楽しくない」(受動的)ってことだと思うんですよ。
それを「報われていない」って感じているだけなのでは?
だとすれば、「努力が報われる社会」を懇願するのではなくて、自分の事を自分で決められる人間になるにはどうすればいいかを考える方が建設的でしょう。
とは言っても、受動的な人は受動的思考になってるが故に「努力が報われる社会」を求めてしまうわけです。なので、仮に「努力が報われる社会」になったとすれば、自分がその社会でどうしなければならないのか?を考えてみましょう。
例えば、自分の家の近所にラーメン屋が二軒あったとします。
国が決めた「努力ガイドライン」によってラーメン屋Aよりもラーメン屋Bの方が「努力」しているという数値が公表されています。
他にも「報われ度」という数値も公表されていて、努力している方の数値が努力していない方の数値より低くならないように、客の数を制限をするなどして調整されます。
自分はラーメン屋Aの方の味が好みなのですが、努力しているラーメン屋Bの「報われ度」が低い為、ラーメン屋Aは制限されていてラーメン屋Bでしかラーメンを食べられません。仕方なくラーメン屋Bでラーメンを食べることにしました。味は好みではないです。
こういうことになりますが、これってアリですか?
「努力が報われる社会」ってこういうことなんですが…。
これを「何か変だな?」って思わない人が全くいないとは言えませんが、多くの人が
自分の好きなラーメン食べたい
って感じると思うんですよね。
それって努力をしてるかしてないかって関係なくないですか?
もう一回、諌山氏の言っていることを見てみましょう。
「自分が面白いと思うことを、みんなが面白いと思うかはわからない」
普遍的にすると「自分がやることを、みんなが認めるとは限らない」ってことで、ラーメン屋の話を考えても「美味しい」と思った方へ食べに行くっていうのはごく自然な話です。それはラーメンを作ってる人が決められることではなく、食べに行く人が決めることですから。
だから、諌山氏が言っていることはものすごく自然な発想なんです。
「努力が報われる社会」っていうのは辻褄が合わないんですね。