どうも、おっさんです。
前回の記事
では、ステレオタイプがほとんどの人に起こってしまう原因は「エネルギーの大小」によるもので、それは全体のエネルギーが拡散する過程でお互いに影響し合って、目の前にあらわれているだけだということを書きました。
これは
を土台にした考え方で、正規分布がなぜこういう形になっているのかを考えるとそうならざるを得ないからです。これは自然な形なので個人の努力や誰かの思惑で決まっていることではないということですね。
しかし、世の中では「努力すれば”良い状態”になる」と思い込んでいる人が多いので、おかしなことになってしまうわけです。
例えば、
で書いたように、「平均値に達していないのは”努力が足りないからだ”」という思い込みがあるので、個人それぞれの適正な労働時間を無視して平均的な労働時間を強制してしまい、中央値から見てマイナス側に負担を強要し、プラス側の労働力を削ぐことを「正しさ」だと勘違いしているので、おかしな結果になってしまうということです。
そもそも、働き方改革とは働きすぎを是正する目的のはずが、現実はマイナス側にもっと働くことを強要し、働き過ぎではないプラス側に働くなと言い、中央値は変化無しになっているので、結局マイナス側の働きすぎは変わらずプラス側の労働力を削った分、全体の労働力が落ちてしまう結果になっています。
ただ、これは「行政はバカだ」で済む話ではありません。
何故なら、ほとんどの人は「受動的」だからです。
受動的な人は「自分のことを自分で決められない」ので、自分がどの程度働けるのかを把握して、自分でその把握した範囲内で働くことができないのです。
なので、誰かが決めたことに従うしかなく、その”誰か”というのは
”平均値付近の人たち”
のことなので、「平均値が正しい」ということになってしまうわけですね。
民主主義では最終的に多数決で物事が決まってしまうので、正規分布では平均値付近の「普通」が一番多く、その普通の人の意見が採用される可能性が高いということになります。
つまり、現在の政治システムとして、ほぼ「普通の意見」が正しいという法的根拠によって物事は進んで行っているので、そこから外れると「誤」と認識されてしまうということなのですが、現実世界では正規分布を見てわかるように、普通から外れた場所にもエネルギーが存在しているので、必ず「誤」は発生することになってしまうわけです。
その必ず発生してしまう「誤」に対して右往左往しているだけの話ですね。
起こってはいけないことが起こっていると錯覚しているだけです。
あらゆる物事は、全体のエネルギーが相互作用することによって目の前にあらわれているだけなので、その物事があらわれたということは、全体のエネルギーの中にその物事の要因が含まれているということになります。
しかし、全体のエネルギーの一部であり、過半数を占めている「普通の人」は自分たちがその要因になっているとは思わないわけです。
政治システムとして正しいことになっているし、そもそも普通の人は「普通」が正しいと思い込んでいるから。
ということになるのですが、その思い込みが発生してしまう原因は前回のステレオタイプで書いた通りに、正規分布によってエネルギーの大小が決まってしまうので、少数派の大きなエネルギーが流れている場所以外ではステレオタイプが起こりやすくなり、物事の判断力が普通の範囲にしかならないので、それを超える物事の判断を間違えてしまう可能性が高くなるのは避けられないわけです。
普通の人の判断力を超える少数派の人たちに判断を任せれば良いようにも思えますが、現実はそういうシステムになっていないですし、少数派も多数派もお互いに相手のことを理解することが難しいので衝突は必ず起きます。
そもそも、民主化はそういう過程を経て実現しているもので、普通の人たちに政治判断が任せられているということは、その結果は「普通のこと」しか起こらないことになるのですが、どういうわけかその普通の人たちは「自分たちの実力以上の結果が起こる」と思い込んでいます。
というより、自分たちの実力を過大評価していることに気付かない
ということですね。
記事内で書いてますが、調査された能力の低い人間の特徴として
・自身の能力の不足や不十分さの程度を認識できない
・他者の能力の高さを正確に推定できない
・その能力について実際に訓練を積んだ後であれば、自身の能力の欠如を認識できる
これらがあげられています。
ステレオタイプで書いた通りに、エネルギーが小さい場所では情報量を抑える為にカテゴライズが発生しやすくなり、判断しなければならない物事に対する情報量が足りなくなるので、間違えた判断をする可能性が高まります。
これらのことから考えると、現在のシステムでは判断を間違える可能性の方が高いので、「間違えて当然だ」という見方をしないといけないのですが、ほとんどの人たちは自分は正しいと思い込んでいるので、間違っている誰かがいてそいつを排除すれば世の中は良くなるだろうという考えになるということなんですね。