おっさんの外部記憶装置

40代おじさんのブログ

働きアリの法則

どうも、おっさんです。

 

アリの群体を観察すると

 

よく働くアリ 二割

普通に働くアリ 六割

あまり働かないアリ 二割

 

に分かれているそうで、これは人間社会にも当てはまり「働きアリの法則」と言われています。

 

詳しくは各自で調べてみてほしいのですが、これを否定する人もいます。

その辺りも含めてこちらの記事

 

dakailabo.com

 

がわかりやすいかもしれないので参考までに。

 

この「2:6:2」に分かれるという法則なんですが、これって…

 

nicolarossi.hatenablog.com

 

前回の記事でも書いている「正規分布」なんですよね。

平均値が一番多くなりプラスとマイナス方向に少なくなっていく。

 

「2:6:2」としているけれど、実際はカッチリ平均的に分かれているわけではなくて、普通と判断される六割程度を一つの山として、そこから上方向に抜き出ている個体と下方向に抜き出ている個体がいるというわけです。

 

この法則で重要なのが、あまり働かないアリを排除しても残った群体の中からまた二割の働かないアリが出現すると言う部分です。

 

これは、正規分布を見てもわかる通りにエネルギーが平均値に集積しているだけなので、残った群体の全体のエネルギーがまた平均値に集積していくだけだからです。

 

同じように、よく働くアリだけを抽出しても「2:6:2」になってしまいますし、普通に働くアリだけでも同様になります。

 

細かな理由は考えれば色々とあるんですが、私は正規分布の記事でも書いているように、その集団の全体のエネルギーがこのような形になってあらわれているだけだと考えています。個別のエネルギーではなくて全体のエネルギーが拡散しているだけという考えですね。

 

実は、日本人はこの考え方をよく知っています。

「縁起」ですね。

 

全ての現象は原因と結果から成っていて、それ自体が独立して存在するのではなく、あらゆる因果が関係し合ってあらわれるというのが「縁起」です。

 

縁起が良いというのは、良い因果の中にいるという意味で使われます。

現代社会ではそういう意味ではない場合が多いですが)

 

 

働きアリの法則に戻りますが、よく働く二割のアリは全体の八割の食料を集めてくるということで、これも人間社会に当てはまると言われています。

 

会社で言うと、上位二割の社員が会社全体の八割の利益を稼ぐということですね。

 

ただし、これはある評価軸に沿って出されていることで、別の評価軸で見ると違う結果になります。

 

例えば、正規分布の記事で出したサイクリングアクティビティでの最大平均パワーの統計で考えると、パワー値が高い人ほどその評価軸では能力が高いということになりますが、別の評価軸では違う結果になるということです。

 

つまり、これは観察者が何を評価するかによって良し悪しが変わってしまうということです。

 

アリの評価でよく働くとしているのは、「食料をどれだけ集めてくるか」等の見てわかる範囲のことなのでしょうが、人間から見てそういう評価なだけであって、アリの世界ではその評価軸ではない可能性があるわけですね。

 

というより、そもそも評価したりされたりという概念がないわけですが。

 

ちなみに、働く為のエネルギーで考えると、よく働くアリはあまり働かないアリと比較して多くのエネルギーを消費していることになるので、食料の消費量は多くなるはずです。逆に、あまり働かないアリの食料の消費量は少なくなるはず。

 

働かないからといって食料を取り上げられることはアリの世界ではないでしょうし、エネルギー的に考えても自然と報酬の量は調節されているわけですね。そもそも、アリは食料を報酬という概念で捉えていないでしょうが。

正規分布

どうも、おっさんです。

 

正規分布について考えたいと思うのですが、とりあえずこれを

 

ガーミンコネクトで見られる、サイクリングアクティビティでの最大平均パワーの統計です。(年齢45~49歳の現在の値を出しています)

 

これはFTPの統計ではなくて、1ヵ月を通しての平均値の統計になります。

 

平均190ワット程度で走っている人が一番多く、それを基準としてマイナスとプラス方向にそれぞれ少なくなっています。

 

これが正規分布ですね。

 

ただし、これはパワーメーターを装着している人のデータなので、パワーメーターを装着していない人は含まれていません。

 

パワーメーターを装着している人というのは、パワー値を参考にして活用したいと思っている人が多いと推測できるので、統計のデータ平均も高めになっていると考えられます。(母集団の平均値が高い状態)

 

パワーメーターを装着していない人も含めると、実際のパワー平均はもう少し下になると推測できますね。

 

みんなで示し合わせているわけでもないのに、このような綺麗な分布になるのが不思議に思えるのですが、自然界では平均値付近に集積するような分布になるということです。

 

世間一般で言われている「努力」が正しいのであれば、もっと歪な形になっても良さそうだと思うし、データを取る時期によっては大きなバラつきが発生しそうだとも思えるのですが、そうはなっていません。

 

つまり、「努力」というものは実は存在しないことを証明しているとも言えます。

 

自然な形が正規分布としてあらわれているのだから、「努力」によって変わるのであれば正規分布にはならないからですね。

 

 

正規分布とは何なのか?を考えてみたのですが、

 

これは、私が閾値辺りで走った時のパワーデータです。

私一個人のデータなので、これを一般的には統計とは言わないですが、見た目は正規分布になっています。

 

この出てきたパワー分布は、私が自転車を走らせるという行為に使ったエネルギーを形にして表すとこうなるっていうことです。

 

つまり、エネルギーが放出されると平均値が一番多くなりマイナスとプラス方向にそれぞれ少なくなっていくことを表しているとも言えます。

 

統計もこれと同じで、その集団のエネルギーの形を表していると言えますよね?

 

上で出した最大平均パワーの分布も、サイクリングアクティビティを行っている集団を突き動かしているエネルギーの形を表すと、このような形になりますよということで。

 

 

エネルギーはそれぞれ局所的に発生して個別に作用しているのではなく、まず全体のエネルギーがあってそれが拡散し分かれた結果、我々の目の前に形として現れているだけだということです。

 

なので、一個人が「努力」するかしないかで差異が発生しているのではなく、そこにあるエネルギーの量や質によって差異が発生しているだけなんですね。

 

それが、統計をとると正規分布として綺麗に現れるということです。

元は同じ一つのエネルギーなので、示し合わせなくても正規分布になる。

わかりにくい話

どうも、おっさんです。

 

前にも書いたのですが、世の中で何か事件や不祥事などが起こると、それを起こした当事者(悪者とされる人)を第三者(善人とされる人)が扱き下ろすという現象が発生します。

 

具体的には、その人物の人柄や過去を持ち出して「この人はこんなに悪い人です!」ということを気が済むまで(飽きるまで)やるわけですね。

 

で、それに何の意味もないですよという話をしました。

でも、それをやるのは価値があると思っているからなんですよね。

 

何故なのかを考えると、これも前に書いたことで「自分が正しいという思い込み」があるので、自分と違う行動をしている人を「間違っている」と自動的に判断してしまうからというのと、正しいという思い込みは「自分は正しくないといけない」という思い込みも含んでいるので、間違っている行動をしている人を見ると「自分は正しい」と証明されるので気持ち良くなるからです。

 

つまり、”自分が”正しい状態にあることが「価値がある」と思っているわけです。

 

まぁ、何度も書いていることで「承認欲求」が発動しているので、自分の価値を認められる状態になっていることが気持ちいいんですね。

 

 

では、反対の悪者とされている人は、「自分は間違ったことをしなければならない」と思っているのかというと、そうではないですよね?

 

今、話題になっていることで言うと、何故不正を行ってしまうのか?と考えると、ノルマが設定されていてそれをクリアすると大きな報酬が得られるわけです。

 

大きな報酬を得られている状態って一般的にどういう認識ですか?

「価値を承認されている」(だから大きな報酬が貰える)

という認識ではないですか?

 

つまり、この行為自体も「自分は価値がある(状態でないといけない)」という前提で行われていることがわかりますよね?

 

しかし、それを不正行為で得てはダメだろというのが善人の主張なのですが、その不正行為自体が承認欲求によって行われているわけで、悪人とされている人もそれを批難する善人とされる人も、根本的には同じ「承認欲求」によって行動していることになります。

 

例えば、二人の人物がいて二人とも収入は同じだとします。

 

一人は不正なしで1,000万円、もう一人は不正しつつ1,000万円稼いでます。第三者から見て、不正がバレなければどちらの人物も稼ぎに対する評価は同じになりますよね?

 

でも、実際は不正をしている方は不正な方法で1,000万円を稼いでいるわけですから、不正なしで1,000万円稼いでいる人より評価は低いということになります。

 

これはどういうことかというと、不正をしなければ1,000万円を稼げないということで、そもそもその人物には1,000万円を稼ぐ能力がないということですね。

 

自分の能力以上の評価が欲しいのですが、不正でもしないとその評価が得られないから不正を許容している状態になっているんです。

 

そこで不正をしない人というのは、そこまでしてその評価が欲しいわけでもない人で、別に「不正は絶対にダメ」だという信念があるわけでもないんですよ。※例えば、制限速度内で走っているドライバーが少ないことからも、一般的にはそういう信念を持って行動をしている人は少ないことがわかる。

 

つまり、承認欲求の大小で決まっているようなものなんですね。

 

今回の話題の場合、不正を社長や上層部は知らなかったというような話なのですが、そもそもノルマを設定しているのは社長や上層部で、不正をせずにそのノルマを達成できないから不正を行うわけですよね?

 

ということは、そのノルマ設定が間違っているわけで、その間違いはどのようにして起こるのかを考えると、第一に会社の収益を維持もしくは上昇させたいからです。

 

こんなのどこの会社でも普通に行われていることで、会社自体の能力があれば不正することなく収益は上がるし、能力のない会社は収益が上がらないという当たり前の話ですが、その能力のない会社が承認欲求でのし上がろうとすると不具合が起こる。

 

そもそも会社の能力が高い場合、ノルマなんかを設定する必要はなく収益は確保できるし、その収益自体のレベルをどこに設定しているかの方が重要になる。

 

事業内容にそぐわない過大な収益を望んでもそれは得られないわけで、その設定を間違ってしまう原因も承認欲求によるものなんですね。

 

自分の能力が高いと錯覚してしまっている状態で、実際の能力以上の事をしようとすると不具合が起こるということです。

 

これはダニング=クルーガー効果ですね。

 

社長が事業全体の責任者なので、社長の責任はもちろんあるわけですが、結局のところそれに従っている従業員も根本的には同じ行動原理なので、そういう社長が取り仕切っている会社には同じ行動原理を持った人(社員)が集まるということですね。

 

違う行動原理の人は、そもそもこの会社で働きたいとは思わない。

 

この「知らなかったから自分は悪くない」的なことを言う社長に対して、どうして「知らなくても全責任は自分にあります」と言えないんだと憤っている人がいましたが、それが出来ている人ならこういうことは起きない可能性が高いんですよ。

 

事件とかでも同じなんですが、犯人が素直に罪を認めない場合に憤っている人いますよね?いつも思うんですが、そんな人なら他人が憤るほどの重大な犯罪を起こさないのでは?と。それに、その事件の内容を検証するために裁判を行うわけで。

 

何故憤っているのかと考えると、「私は悪いことをしました」と宣言してもらわないと、「自分が正しい」ことの証明が曖昧になってしまうと感じるからでしょうね。

 

悪いことをしている人を見つけて、その人を批難することで自分の正しさを証明しているので、その人が「私が悪い人です」ということを認めないとスッキリしないわけです。

 

でも、それをすることに何の意味があるんでしょうか?って言う話で。

 

考えなきゃいけないのは、どうしてこういうことが起こるのか?ということと、それを防ぐにはどうすればいいのか?ということで、それはその「悪い人」を攻撃するだけでは得られないことですよね?

 

悪い人を攻撃することだけが解決法だと思っている場合、「悪いことをする人がいるからいけないんだ」という思考だと思うんですよ。

 

しかし、悪いことというのは、誰かがそれを悪いことだと設定しているから悪いことになっているだけで、その設定がなければ悪いことにはならないんですよ。だから、悪いことと公的に設定するには法律として規定しなければならないわけです。

 

公的に設定したとしてもそれに従わない人は必ず出てきます。良い例は、既に書いた通りに制限速度に従うドライバーの少なさからもわかります。自分が悪いことをしているという自覚がないし、逆に制限速度で走っている人の方が悪いとさえ感じ、煽ったりするわけですね。煽らないとしても「おっせーな」と思う人がほとんどでしょう。その人の設定次第でどうにでもなるということです。

 

その人の行動原理が結果としてあらわれると、他人から見た時に「悪いこと」になっているだけなので、その人に対して「何故悪いことをするんだ?」と言っても意味がないということですね。

 

それを理解するには、他人の行動原理を見ないといけないのですが、「自分が正しい」と思い込んでいる限りそれは難しい。

 

他人の行動原理を理解できるとしたら、それは正しいと思っている自分の行動原理と同じ場合だけなので、その行動を「悪い」と認識できないんですよ。正しい行動原理だと思い込んでいるわけですから。

 

自分と同じあるいは似ている場合は「正しい」で、自分と違う場合は「間違い」と認識しているだけなので、それがどのようにして違っているのかということには興味がないから理解することができないんですね。

今の選手 vs 昔の選手

どうも、おっさんです。

 

今月も大谷選手は絶好調でしたね。

 

同じ二刀流のベーブ・ルースと比較されて、「どっちが凄いのか」みたいなことをよく言われたりするのですが、大谷選手に限らず今の選手と昔の選手を比較して言われたりもします。それは野球に限らず。

 

一般的に、このような比較をされる場合”記録”を基にして言われるわけですが、この手法は実は適当ではありません。

 

これは、昔の選手を今に持ってきたり、逆に今の選手を昔に持っていったり、時代背景の違う物事をそのまま比較するやり方だからです。

 

つまり、環境が違うことを考慮していないということです。

 

現代では昔と比較してスポーツに限らず「理論」がある程度確立されています。昔は曖昧だったことがそうではなくなっているということで、例えば大谷選手はモーションセンサーを使ってフォームの違いを把握し、練習に活かしたりしています。

 

ベーブ・ルースがもし現代にいたとすると、彼も同じように現代の確立された理論を用いることができるわけですから、記録も変わる可能性が出てきます。

 

逆に大谷選手が100年前にいた場合、理論は今ほど確立されていないわけですから、今の大谷選手が用いている手法は使えず「手探り」の部分が大きくなります。この場合も記録が変わる可能性が出てきます。

 

大谷選手は恵まれた体格なのですが、100年前の日本に生まれていたとしたら、その体格を得られていたかどうかもわかりません。逆に、ベーブ・ルースも現代に生まれていたら当時の体格とは違っているでしょう。

 

このように、環境(時代背景)の違いというのは物事に大きな影響を与えてしまうので、違う時代の物事をそのまま比較するのは適当ではないということになります。

 

それに、大谷選手が100年前の日本に生まれたとして、野球をやっているかどうかも怪しくなってきます。それは現代に生まれるベーブ・ルースも同じことで。

 

すると、「昔の選手は現代では通用しない」またはその逆の主張というのは成り立たなくなってくるし、そもそも過去から現在への積み重ねで今があるわけなので、現代の選手は昔の選手によって今存在しているとも言えます。

 

大谷選手や他の選手がメジャーでプレーしようと思うのも、昔(今まで)の日本人選手がメジャーに挑戦してきたのを見ているからという部分もあるでしょう。

 

比較できそうなものがあればどこからか理由を見つけてきて、「どっちが優れているか」を決めようとしたがるのですが、そのどこからか見つけてきた理由が正しいわけではなく、優れているという思い込みを補強したいだけなんですね。

 

そうすると安心できるから。

分解能

どうも、おっさんです。

 

前回の

nicolarossi.hatenablog.com

記事で、

 

仮にロードバイクを走らせる能力をあらわせる数値があって、その最大値が「100」だとしても”誰でもできる”と思い込んでいる人はその「100」という数値に気付かない。

 

と書いたのですが、これを少し掘り下げます。

 

”誰でもできる”というのは、「誰がやっても違いがない」あるいは「誰がやっても違いが小さい」ということです。

 

逆にそう思ってない場合は、「違いがある」「違いが大きい」ということです。

 

同じ事柄を見た時に、その対象がただの1個の塊に見えるか、個別の100個が集まった集合体の1個に見えるかみたいなことです。

 

目の前にあるものを分解して見られるかどうかということですね。

 

何かの行為をした場合に、それが1個の塊にしか見えない人は毎回同じにしか感じられないが、個別の100個に見える人には「1/100」~「100/100」の違いを感じられるわけです。

 

まぁ、1個の塊にしか見えないというのは極端ですが、その行為が上手いか下手かの違いの話です。

 

上手い人はその事柄をより細かく見ることができているということで、「分解能」が高いから細かな違いがわかるわけですね。

 

で、上手い人でも初めから上手いわけではないので、練習を繰り返すことで段々と上手くなっていくわけですが、それは「分解能」が高くなっていくということです。

 

初めは10段階だったのが、100段階になって1,000段階になって10,000段階になって…

 

というように、目の前に見えている事柄は一見変化していないのだけど、どんどんと細分化されていくことによって内側から変化していくように感じます。

 

つまり、上手くなるっていうことはどんどんと「地味」になるということでもあります。

 

「派手」なことにしか興味が行っていない場合、そういう細かい「地味」な部分に気付けないわけですから、「100」という数値にも気付けないんですね。

 

他人からどう評価されるかを最重要課題にしている場合、その評価する他人もほとんどの場合「派手」な部分しか見えてないわけですから、余計に「地味」だけど本当は重要な部分が見落とされてしまうということになります。

 

一般的にはこれのことを「センス」と言うわけですが…。

経験値

どうも、おっさんです。

 

ロールプレイングゲームとかでは、敵と戦って経験値を貯めるとレベルが上がったりしますよね?そして、レベルが上がると使える魔法が増えたり、強い武器が使えるようになったりします。

 

ゲームではそういうシステムになっているので、使いたい魔法や武器がある場合はそのレベルに上げないと使えないわけです。

 

でも、現実世界はそういうシステムになっていなくて、何かをしたり道具を使うのにレベルが足りないから使えないなんてことはありません。

 

ロードバイクで言うと、初心者でもハイエンドの自転車に乗れるし、頑張れば100km以上のロングライドも走れたりします。

 

あ、私の好きなフロムソフトウェアアクションRPG「エルデンリング」とかは、レベルが足りてなくても武器を振るうことはできます。が、その武器が持つ”本来の能力”を発揮できないので、敵に与えるダメージが全然出ないようになっています。(魔法はさすがに使うことさえできないですが)

 

つまり、現実世界ではレベルが足りてなくてもその行為を行うことができるが、経験が足りず本来必要な能力に達していないことに気付きにくく、その行為自体に問題点が出てくるということです。

 

ほとんどの場合、この状態で物事を進めているので、行為のレベルが上がるにつれて対処が難しくなるのですが、その原因を突き詰めると

 

「基礎的な経験値が足りない」

 

ということになります。

 

仮に、100kmのロングライドを無理なく行うのに必要な経験値が「100」だとします。しかし、一般的にはその経験値に達していない状態で100kmロングライドをしているので、経験値が足りていないほど無理がかかります。その結果、身体に痛みが出るなどの問題が起こります。

 

さらに難しいのが、その行為を行っていれば自動的に経験値が貯まるわけではないということです。

 

ゲームのように敵を倒せば経験値が貯まるシステムであれば、ただ敵を倒すだけで自動的に経験値が貯まっていくのですが、現実世界はそう単純ではないので、ただ走っているだけではダメなのです。

 

「基礎的な経験値が足りない」のはもちろん基礎的な練習行為を行っていないからですが、何故その行為を積極的にしないのかというと「楽しくないから」です。

 

厳密に言うと、基礎練習をするよりもロングライドの方が楽しいからなんですが、基礎練習をするということは一般的には「努力をする」ということでもあります。

 

努力とは、”目標の為に本当はやりたくないことをやる”というのが一般的な認識で、こういう部分から見ても基礎練習は「楽しくない」ということですね。

 

しかし、上達する人は基礎練習こそ楽しんでやります。

 

例えば、イチロー選手が現役の頃に自主練に密着していた記者が、イチロー選手が球を何球も淡々と投げる姿を見て、「こういう地道な練習をしているから良い成績を残せるんですね」みたいなことを言ったのですが、イチロー選手は「これやってみると意外と楽しいですよ」と答えました。

 

つまり、ただ球を投げるだけの”地味”な練習を「努力」してやっているから良いんだというような見方を記者はしているんだけど、イチロー選手はそれを「努力」とは思ってなく、「楽しい」と思ってやっているということです。

 

一般的にも「努力」に対して同じような認識でしょう。

 

で、ロードバイクに話を戻すと、基礎練習をせずにロングライドだけをするのは、基礎練習は”地味”でつまらないという認識になっているからです。

 

基礎練習を楽しくやるのと嫌々やるのとでは、経験値の貯まり方が違ってきます。楽しくやれる人は「100」貯めるのも早いけれど、嫌々やっている人は半分の「50」を貯めるのも苦行でしょう。

 

「地味」なことに興味が湧かないのは「派手」なことに興味が行っているからで、その派手なことというのは「他人から評価されること」です。

 

自転車はほとんどの人が乗れますから、ただ走っているだけでは誰からも評価されませんよね?でも、「100km走れる」となれば「すごいですね」と誰かから評価されます。

 

つまり、「誰でもできる(と思い込んでいる)こと」は地味なので興味が湧かないということですね。

 

しかし、誰でもできるというのは錯覚で、ロードバイクを走らせる能力をあらわせる数値があったとして、その最大値がまた「100」だとしましょうか?これも経験値を貯めないといけないことになるのですが、誰でもできると思い込んでいるのでその「100」という数値にほとんどの場合気付かないわけです。

 

・誰でもできると思い込んでいるので、自分ができていないことに気付けない。

・基礎的な経験値が足りていないので上のレベルほど難しくなる。

 

上達しにくい状態になっているわけです。

まぁ、ダニング=クルーガー効果ですね。

 

解決するには基礎的な経験値を貯める必要があるのですが、誰でもできる(と思い込んでいる)”地味”なことに興味が湧かないので、それをやるとしても嫌々「努力」してやらなきゃいけなくなるんですね。

 

だから一般的には「努力」が偉いと思われているのですが、そもそも「誰でもできること」という思い込みがなければ”地味”なことという認識は発生せず、その行為に対して自然と興味が湧くので勝手にやり始めるのです。

 

で、それは「楽しいこと」と認識されるので「努力」なんて必要ないことになる。

 

必要な経験値があったとしても、それはいつの間にか貯まって次のレベルに勝手に突入していることになるし、そもそも楽しいからやっていることでレベルとか経験値とかどうでも良くなってくるだけなんですね。

 

これは何にでも当てはまることで、一般的には自分がどう評価されるかを最重要課題にしている人が多い結果ということでもあります。

塩パスタ

どうも、おっさんです。

 

WBC盛り上がりましたね。

 

大谷選手の食事は基本的に薄味なんだそうで、パスタも塩味で食べるそうです。

食事は楽しむというよりも、エネルギーを補給する行為とのこと。

 

これを聞いた人は大谷選手はストイックだとか、努力してるとか言うんだと思いますが、本人はこれを苦にしてないからできているわけですね。

 

前にダイエット関連で書いたのですが、食べるという行為の脳内での”優先順位”が下がると特に苦にせずこういうことができるようになります。

 

大谷選手は今は野球のことで頭がいっぱいなのでしょう。

 

一回の食事でゆで卵を3つ食べているのを見て、他の選手も真似してみたそうですが、3つ食べるのはなかなか難しいようです。

 

これも、大谷選手は頑張って3つ食べているわけではなくて、3つ食べられる状態になっているだけなので、これをただ真似すればいいわけではないんですね。

 

同じように、お酒を呑まなかったり夜遊びしなかったりするのも、大谷選手はそれをしたいと思わない状態になっているだけなので、それをやっている人が嫌々やめてみても意味がなかったりします。

 

大谷選手が育ってきた環境によって、そのような思考行動をするようになった結果が今で、違う環境で育った人が違う思考行動をしているだけのことだから、大谷選手と同じような努力をしないといけないわけではないということです。

 

人それぞれやり方は違ってもいいというか、そもそも人それぞれ違うのだからやり方も違うというだけです。

 

で、人それぞれ違うのだから今の到達点も違うというだけ。

それを当事者や第三者が見て、優劣をつけて一喜一憂しているわけです。

 

それが良いとか悪いとかの話ではなくて、単にそういうことだということです。

 

なので、大谷選手のように努力していないからダメなんだというのは見当違いで、人それぞれ今やることをやるしかないというだけの話なんですね。