どうも、おっさんです。
前にも書いたのですが、世の中で何か事件や不祥事などが起こると、それを起こした当事者(悪者とされる人)を第三者(善人とされる人)が扱き下ろすという現象が発生します。
具体的には、その人物の人柄や過去を持ち出して「この人はこんなに悪い人です!」ということを気が済むまで(飽きるまで)やるわけですね。
で、それに何の意味もないですよという話をしました。
でも、それをやるのは価値があると思っているからなんですよね。
何故なのかを考えると、これも前に書いたことで「自分が正しいという思い込み」があるので、自分と違う行動をしている人を「間違っている」と自動的に判断してしまうからというのと、正しいという思い込みは「自分は正しくないといけない」という思い込みも含んでいるので、間違っている行動をしている人を見ると「自分は正しい」と証明されるので気持ち良くなるからです。
つまり、”自分が”正しい状態にあることが「価値がある」と思っているわけです。
まぁ、何度も書いていることで「承認欲求」が発動しているので、自分の価値を認められる状態になっていることが気持ちいいんですね。
では、反対の悪者とされている人は、「自分は間違ったことをしなければならない」と思っているのかというと、そうではないですよね?
今、話題になっていることで言うと、何故不正を行ってしまうのか?と考えると、ノルマが設定されていてそれをクリアすると大きな報酬が得られるわけです。
大きな報酬を得られている状態って一般的にどういう認識ですか?
「価値を承認されている」(だから大きな報酬が貰える)
という認識ではないですか?
つまり、この行為自体も「自分は価値がある(状態でないといけない)」という前提で行われていることがわかりますよね?
しかし、それを不正行為で得てはダメだろというのが善人の主張なのですが、その不正行為自体が承認欲求によって行われているわけで、悪人とされている人もそれを批難する善人とされる人も、根本的には同じ「承認欲求」によって行動していることになります。
例えば、二人の人物がいて二人とも収入は同じだとします。
一人は不正なしで1,000万円、もう一人は不正しつつ1,000万円稼いでます。第三者から見て、不正がバレなければどちらの人物も稼ぎに対する評価は同じになりますよね?
でも、実際は不正をしている方は不正な方法で1,000万円を稼いでいるわけですから、不正なしで1,000万円稼いでいる人より評価は低いということになります。
これはどういうことかというと、不正をしなければ1,000万円を稼げないということで、そもそもその人物には1,000万円を稼ぐ能力がないということですね。
自分の能力以上の評価が欲しいのですが、不正でもしないとその評価が得られないから不正を許容している状態になっているんです。
そこで不正をしない人というのは、そこまでしてその評価が欲しいわけでもない人で、別に「不正は絶対にダメ」だという信念があるわけでもないんですよ。※例えば、制限速度内で走っているドライバーが少ないことからも、一般的にはそういう信念を持って行動をしている人は少ないことがわかる。
つまり、承認欲求の大小で決まっているようなものなんですね。
今回の話題の場合、不正を社長や上層部は知らなかったというような話なのですが、そもそもノルマを設定しているのは社長や上層部で、不正をせずにそのノルマを達成できないから不正を行うわけですよね?
ということは、そのノルマ設定が間違っているわけで、その間違いはどのようにして起こるのかを考えると、第一に会社の収益を維持もしくは上昇させたいからです。
こんなのどこの会社でも普通に行われていることで、会社自体の能力があれば不正することなく収益は上がるし、能力のない会社は収益が上がらないという当たり前の話ですが、その能力のない会社が承認欲求でのし上がろうとすると不具合が起こる。
そもそも会社の能力が高い場合、ノルマなんかを設定する必要はなく収益は確保できるし、その収益自体のレベルをどこに設定しているかの方が重要になる。
事業内容にそぐわない過大な収益を望んでもそれは得られないわけで、その設定を間違ってしまう原因も承認欲求によるものなんですね。
自分の能力が高いと錯覚してしまっている状態で、実際の能力以上の事をしようとすると不具合が起こるということです。
これはダニング=クルーガー効果ですね。
社長が事業全体の責任者なので、社長の責任はもちろんあるわけですが、結局のところそれに従っている従業員も根本的には同じ行動原理なので、そういう社長が取り仕切っている会社には同じ行動原理を持った人(社員)が集まるということですね。
違う行動原理の人は、そもそもこの会社で働きたいとは思わない。
この「知らなかったから自分は悪くない」的なことを言う社長に対して、どうして「知らなくても全責任は自分にあります」と言えないんだと憤っている人がいましたが、それが出来ている人ならこういうことは起きない可能性が高いんですよ。
事件とかでも同じなんですが、犯人が素直に罪を認めない場合に憤っている人いますよね?いつも思うんですが、そんな人なら他人が憤るほどの重大な犯罪を起こさないのでは?と。それに、その事件の内容を検証するために裁判を行うわけで。
何故憤っているのかと考えると、「私は悪いことをしました」と宣言してもらわないと、「自分が正しい」ことの証明が曖昧になってしまうと感じるからでしょうね。
悪いことをしている人を見つけて、その人を批難することで自分の正しさを証明しているので、その人が「私が悪い人です」ということを認めないとスッキリしないわけです。
でも、それをすることに何の意味があるんでしょうか?って言う話で。
考えなきゃいけないのは、どうしてこういうことが起こるのか?ということと、それを防ぐにはどうすればいいのか?ということで、それはその「悪い人」を攻撃するだけでは得られないことですよね?
悪い人を攻撃することだけが解決法だと思っている場合、「悪いことをする人がいるからいけないんだ」という思考だと思うんですよ。
しかし、悪いことというのは、誰かがそれを悪いことだと設定しているから悪いことになっているだけで、その設定がなければ悪いことにはならないんですよ。だから、悪いことと公的に設定するには法律として規定しなければならないわけです。
公的に設定したとしてもそれに従わない人は必ず出てきます。良い例は、既に書いた通りに制限速度に従うドライバーの少なさからもわかります。自分が悪いことをしているという自覚がないし、逆に制限速度で走っている人の方が悪いとさえ感じ、煽ったりするわけですね。煽らないとしても「おっせーな」と思う人がほとんどでしょう。その人の設定次第でどうにでもなるということです。
その人の行動原理が結果としてあらわれると、他人から見た時に「悪いこと」になっているだけなので、その人に対して「何故悪いことをするんだ?」と言っても意味がないということですね。
それを理解するには、他人の行動原理を見ないといけないのですが、「自分が正しい」と思い込んでいる限りそれは難しい。
他人の行動原理を理解できるとしたら、それは正しいと思っている自分の行動原理と同じ場合だけなので、その行動を「悪い」と認識できないんですよ。正しい行動原理だと思い込んでいるわけですから。
自分と同じあるいは似ている場合は「正しい」で、自分と違う場合は「間違い」と認識しているだけなので、それがどのようにして違っているのかということには興味がないから理解することができないんですね。