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おじさんのブログ

駆除

どうも、おっさんです。

 

nicolarossi.hatenablog.com

ロッコ問題では、「5人を救う為に1人を犠牲にしても許される」と考えている人が多いけれど、その犠牲者が家族や友人であれば救いたい、という矛盾があることがわかりますし、

 

nicolarossi.hatenablog.com

自動運転の例では、「法律を守ってない人を犠牲にしても許される」と考えている人が多いけれど、その考え自体が法治主義に則っていないので、自分自身が「法を守ってない人」になってしまうという矛盾が起きてしまうこともわかりました。

 

これらを見てわかるのは、「人間は矛盾している」ということです。

何故、矛盾した状態をおかしいと思わないのか?

 

これを、「自分が正しい」という”思い込み”と言っています。

 

この思い込みがあると、あらゆる場面で「自分の正しさ」を証明しようとしてしまい、物事を正しく見ることができなくなってしまうんですね。

 

 

テレビで「珊瑚を保全する為にヒトデを駆除している」という人が紹介されていました。その方はボランティアでやっているそうで、そういう部分も含めて”素晴らしい人”というような紹介のされ方でした。

 

おそらくほとんどの人がこのような活動を好意的に見るでしょう。

それは珊瑚を美しいと思う人が多いからです。

だからテレビで紹介される。

 

「珊瑚を守る為にヒトデを犠牲にしても許される」

 

というわけですね。

ヒトデは大量発生することがあるし、珊瑚と比べると価値が低いから許される。

 

ヒトデが大量発生する原因はまだよくわかっていないようですが、人口が多い地区の生活排水が流れ込みやすい場所で起こりやすいなど、その他も含めて人間の活動が影響している可能性があるのではないかと考えられています。

 

一方で、そもそも大量発生のサイクルは自然現象で、珊瑚もヒトデも増えたり減ったりを繰り返しながら、今の状態になっているだけだという考えもあります。

 

人間は珊瑚が減るのが困る(見た目はもちろん、観光業や漁業への影響がある)から、ヒトデを駆除しても良いと勝手に思っているだけです。

 

このような活動をボランティアでやっているから素晴らしい、と思うのは人間の勝手な思い込みなんですよ。

 

このボランティアの方がどうしてこのような活動をしているのかを考えてみると、これも”ハビトゥス”で説明できます。

 

ハビトゥス=環境に適応することで獲得した無意識下で行われる行為の方向性

 

ハビトゥスによって、海が好き>海洋生物が好き>珊瑚が好き、というように方向性が収束していくことによって、勝手にボランティア(見返りを求めない状態)になるわけですね。

 

それはその人が好きでやっていることなのだから、その行動自体に価値があるわけです。見返りがいらなくなると捉えることもできますが、そもそも好きなことだから初めから必要ないんですね。

 

でも、ヒトデ側から見たら駆除されるわけですから、それを”良いこと”とは思わないですよね?っていう話です。

 

ヒトデも生まれてくる環境があって生まれてくるわけで、珊瑚を食べることもヒトデの活動の一部なのだから、それもハビトゥスによって方向性が収束した結果起こっている現象に過ぎない。

 

結局、人間もヒトデもやっていることは同じなわけで、それに良し悪しなんてないことになってしまう。

 

でも、人間の方が力関係が上だからヒトデは駆除されてしまうというだけです。

 

 

もし、人間より上位の生命体がいて「人間は価値がない」と判断したら、ヒトデと同じように駆除されてしまうのですが、その時に人間はどう思うんでしょうか?

自動運転

どうも、おっさんです。

 

前回の

 

nicolarossi.hatenablog.com

ロッコ問題に関連することで、自動車の自動運転で「誰かを犠牲にするしかない」場面でどういう設定をするか?という問題があります。

 

例えば、信号無視をして横断歩道を渡っている人がいて、その人を避けないといけないけれど、その避けた先にも人がいる場合にどうするか?みたいなことです。

 

これも調査されていて、

 

「法律を守っている人を優先する」

 

という人が多いみたいですね。

 

つまり、誰かを犠牲にしないといけない場合に、法律を守っていない人を犠牲にしてもかまわないと思っている人が多いってことです。

 

この記事

nicolarossi.hatenablog.com

で説明してますが、罪刑法定主義という概念があり、「ある行為を罪として罰するには、罪と罰を予め明確に規定しておかなければならない」というのが、法治主義として重要な部分になっています。

 

なので、「法律を守っていない人を犠牲にしてもかまわない」という理屈は成り立たないんですね。

 

道路交通法による信号無視の場合の罰則は「二万円以下の罰金又は科料」なので、信号無視した場合の法的責任はそれ以上でも以下でもないからです。※信号無視したことによって起こった損害については、別の刑罰によって責任を負わなければなりません。

 

それに、自動運転に限らず、道路交通法で歩行者は保護される対象になっているので、信号無視をしている人を撥ねた場合でも自動車側の責任はゼロにはなりません。

 

日本国憲法にも

第三十一条 何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

とあり、定められた手続きを踏まずに罰を科せられないのだから、法律に違反しているからといって、その場で犠牲になっても良いわけがないんですね。

 

しかも、手続きを踏まない刑罰(私刑)を科すことを禁止しているのだから、その行為をした時点で法を守っていないことになり、「法律を守っていない人を犠牲にしてもかまわない」と言っている人自身にそれが降りかかることになります。

 

矛盾しているわけですね。

 

 

自動運転の開発者はどう考えているのかというと

 

・そもそも正解がないから問題と捉えていない

・誰かを犠牲にしないといけない場面にはほとんどならない

・その為の自動運転技術

 

ということです。

つまり、そのような正解のない場面になる前に対処できるようにするのが、自動運転の目指すところということなんですね。

 

手動運転が禁止されない限り、自動運転と手動運転の自動車が混在するわけですが、もし自動運転車が法律を守っていない手動運転車を考慮しない運転をしたら、あちこちで事故が起こるでしょう。

 

そうならないようにするには、法律違反をする自動車がいることを前提に運転しないといけないことがわかりますよね?

 

つまり、「自分(法律)が正しい」という思考は邪魔にしかならないということです。

 

自動運転で難しいのは、地域によって運転の仕方に違いがあるところだそうで、例えば日本で言うと「名古屋走り」のような地域性の特徴のことです。

 

そのような違いも考慮しないと自動運転は成り立たないわけで、結局は「人はそれぞれ違う」という前提で見ていかないと、物事は上手くいかないということですね。

トロッコ問題

どうも、おっさんです。

 

「トロッコ問題」という思考実験があって、

線路を走っている制御不能なトロッコがあり、その先には5人の作業員がいてこのままではトロッコに轢き殺されてしまう。自分の目の前には線路の分岐があり、分岐器を操作して進路を切り替えれば5人の作業員は救えるが、切り替えた進路の先にも1人の作業員がいる。

この場合、進路を切り替えますか?

そして、その行為は許されますか?

という問題です。

 

「5人を救う為に1人を犠牲にしても良いですか?」という問いですね。

 

この問題には正解がなく、答えによってその人の基本的な思考が見えてくるというものですが、行動を起こして5人を救う(1人を犠牲にする)ことを選ぶ人は「功利主義」、何もしない(5人を救う為に1人を犠牲にすることを選ばない)人は「義務論」に従っていると言われています。※これを「功利主義」というのは違和感があるという意見もあります。

 

全体的に見ると、行動を起こして5人を救うことを選ぶ人が多いようです。

 

ところが、日本人の大学生で調査したところ「何もしない」を選ぶ人も多く、これは直感的には「行動を起こす」を選んでも、熟考すればするほど”判断に伴う責任から逃れよう”とし、「何もしない」を選ぶようになるからとのことです。

 

この”判断に伴う責任から逃れようとする”という思考が何故起こるのかというのも考察されていて。日本ではコミュニティが比較して流動的ではない為、他者からどう見られるかということも判断に影響するとしていました。

 

 

ちなみに、私はこの場合「何もしない」を選びますが、この問題を初めに見知った時に思ったのは「これってどういう状況?」ということ。

 

「こうなってたらもうダメでしょ」という感じです。

こうなる前に対処するのが正解という考え方です。

 

とは言っても、全ての物事に事前に対処できるわけではないので、起こったことに結果的な良し悪しを判断するのではなく、過程のどこに問題があるのか?を知ろうとするという話です。

 

それと、私は「何もしない」を選びますが、行動を起こすのも何もしないのもどちらも同じだと考えているので、「何もしない」からといって責任はないことにはならないと思っています。「何もしない」という”行動”によって5人が死ぬわけですから。

 

 

このトロッコ問題の派生もあって、

線路を走っている制御不能なトロッコがあり、その先には5人の作業員がいてこのままではトロッコに轢き殺されてしまう。自分はそれを線路の上に架かっている橋の上から見ていて、同じように目の前にいる太った人もそれを見ている。この太った人を線路に突き落とせばトロッコは止まりそうだ。

突き落としますか?

というもの。

 

1人を犠牲にして5人を救うという構図は同じなのに、こちらの場合は「何もしない」を選ぶ人が大多数です。「進路を変える」という間接的な行動は許されて、「突き落とす」という直接的な行動は許されないということのようですね。

 

この1人と5人は設定上「赤の他人」ということになっているのですが、例えば犠牲にしても良いという1人が家族や友人だったらどうするんですか?と問うと、これは「赤の他人」という設定だから1人を犠牲にすることを選ぶのであって、トロッコ問題の趣旨からずれると言っている人がいます。

 

一方で、家族や友人の場合は全力で1人を守るという人もいます。

 

つまり、何にしても家族や友人だったら1人を犠牲にする行動を選ばないということですよね?

 

ここに「矛盾」があるのですが、家族や友人なら犠牲にできないのであれば、その犠牲にした1人にも家族や友人がいるわけで、その人たちは家族や友人であるその1人を犠牲にしてほしくないと思いますよね?

 

であれば、1人を犠牲にすることを「許される」とは言えないのでは?

 

「突き落とす」が許されないと感じるのもこの辺りが影響していて、自分との関係性がある程度濃い場合は犠牲にすることを選べないのでは?「突き落とす」は自分が直接関わるのでそこに関係性が生まれるが、進路を変える程度であれば直接関わらないので関係性は薄い。

 

結局、自分と関係性があるかないかみたいな判断しかしてないのでは?

で、日本人の場合はその関係性の範囲が比較して広いのだと推測できますね。

 

これらのことを考えても、人間の判断というのは基本的に「恣意的」だということがわかりますね。

罪を憎んで人を憎まずとはどういうことなのか?

どうも、おっさんです。

 

前回の記事

 

nicolarossi.hatenablog.com

で、「罪刑法定主義」という概念から見ても、決まった正しさというものはなく、人はそれぞれ違うという前提で見ていかないと秩序は生まれないのでは?という話をしました。

 

最近、飲食店での迷惑行為をSNS等に投稿して問題になっていますが、反応を見てみると、「厳罰に処して今後こういうことが起きないように見せしめろ」という意見が多いようですね。

 

それもありだと思うのですが、現実問題としてみんなが思っているような「厳罰」な処分は難しいのではないか?という見方もあります。

 

これは、どの法律が当てはまるのか?とか、これまでの判例とかに沿って考えるとそうなるという話です。つまり、現在の法律で定められている罪と罰では、みんなが求めている「厳罰」にはならないですよってことですね。

 

罪刑法定主義」への反論で、「想定されていない罪が出現した場合に対処できない」というものがあります。

 

これを罪刑法定主義の”欠点”だと言うこともできるのですが、そもそも「人はそれぞれ違う」という前提で罪刑法定主義という概念があるわけなので、罪はその出現した違いを埋めるための役割として存在するため、想定していない違いに対処するものではないのです。

 

ちょっとわかりにくいかもしれないですね。

別の角度から話してみます。

 

 

今回の飲食店での迷惑行為を見知った時に、みんなはどういう感情を持ったのでしょうか?反応している人を見てみると

 

「え?どうしてこんなことしてるの?」

 

というのが大体の第一印象のようです。

見た瞬間に「これは○○法○○条違反だ!」と反応した人はほとんどいないでしょう。

 

・何かおかしなことをしている=悪いことだ!

・悪いことをしている=罰せられて当然

・これは何の法律に違反しているのか?

・どんな罰を受けるのか?

 

っていう順番ではないですか?

 

つまり、法律違反をしているから「悪い」という理屈ではなくて、”理解できないことをしているから「悪い」”という反応ですね。

 

ほとんどの人は「自分が正しい」と思い込んでいますよっていう話をしていますが、自分の理解の範疇を超える現象に出会うと、それを自動的に「間違っている」と判断してしまうんですよ。自分が正しいから。

 

いや、これは衛生的に見て間違った行動だから「間違っている」だろ。

って思いますよね?

 

それは、その通りです。

ただ、”自動的に間違っていると判断してしまう”という部分が問題になります。

 

この記事

 

nicolarossi.hatenablog.com

での色の見え方の違いも同じ理屈ですよね?

 

この場合の色の見え方に正しさなんてないのに、お互いに相手のことを「おかしい」と思ってしまっているでしょう?で、何の根拠もない「多数派」が正しいとなっています。

 

つまり、今回のような迷惑行為に対して憤っている人は、「自分が正しい」という思考行動をしていることになります。「人はそれぞれ違う」という前提ではないということですね。

 

なので、罪刑法定主義によって、罪と罰が予め規定されているということが理解できず、自分たちが望む「厳罰」にならないことに更に憤りを感じてしまうのです。

 

その憤りから法律がおかしいということも言い出します。

 

 

環境適応の結果「人はそれぞれ違う」という観点で今回の問題を見た場合、

 

・その人が育った環境によって今回の迷惑行為が起こった

・それが起きる環境とはどういうものなのか?を考える

 

こうなります。

 

・育った環境によって思考行動が違っている

・その育った環境は更にその周りの環境の影響を受けている

・親や地域が単独で存在しているわけではない

・それらの環境もまわりから影響を受けている

・憤っている人もそれら環境の一部

 

結局のところ「全体」の問題ということになります。

 

”罪を憎んで人を憎まず”

 

とは、こういうことを言っているんですね。

罪刑法定主義

どうも、おっさんです。

 

前回の記事

 

nicolarossi.hatenablog.com

までの話をまとめると

 

・人は環境に自動的に適応するようになっている

・その環境は様々なのだから適応状態も様々になる

・その様々な適応状態が人の思考行動にあらわれる

・なので、あらわれた思考行動の違いに「正しさ」はない

・しかし、”無意識”にそれを比較して「正しさ」を求めようとする

 

ってことです。

 

前回の記事では、文化(環境)の違いによって色の見え方や区分が異なったりすることがあるけども、その違いを実際に経験しない限り「みんな同じだろう」と思い込んでいるし、その違いがどうして起こるかということよりも、「どっちが正しいか」を求めようと思考するのが一般的な行動だとわかりましたよね?

 

で、その根源は「自分が正しい」と思っているから。

 

そこに「正しさ」はないんだけど、自分が正しい状態でないと不安なので”無理やり”「正しさ」を見つけようとして、根拠をどこからか持ってきているだけです。

 

その持ってくる根拠は「努力してるかしてないか」とか「多数派である」とかなので、環境に適応した結果あらわれた人の思考行動の正しさを求める根拠にはなってないのですが、自分が正しい状態になっていないと不安なので、それがおかしいことに気付かないわけです。

 

 

とは言っても、社会の秩序を保つにはある程度の協調が必要で、それぞれの人が自由奔放に行動していたらあちこちで衝突が起きてしまいます。車両が道路の左右どちらでも走って良いならあちこちで事故が起きます。

 

秩序が保たれているということは「安定する」ということで、反対の不安定な状態よりも物事を進めやすく余計な労力がかからないわけですね。なので、その為にしてはいけない行動を予め「法律」として規定しておくということです。

 

罪刑法定主義」という概念があって、これは

 

”ある行為を罪として罰するには、罪と罰を予め明確に規定しておかなければならない”

 

ということです。

この概念がなければ、後から定められた法で裁かれるということが起こってしまうから。その場合、恣意的に人を罰することもできてしまうわけですね。

 

日本国憲法にも

第三十九条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。

とあります。

 

これらのことから法律を「正しさ」と言っても良いような感じがしますが、私は法律でさえ正しさではないと考えています。

 

それは、法律も改正されたり廃止されたりするからです。

ある時は正しかったものがそうでなくなったりするわけです。

時代や環境の変化に合わせて改正や廃止が行われる。

 

正しさはないから従わなくて良いという話ではなくて、ある程度の秩序を保つための協調にしか過ぎないということです。

 

これは、前提として「自由」という概念があるので、その前提を考えるとそうなってしまうし、自由とは環境に適応した結果あらわれたその人の思考行動のことなので、そこに正しさはないという話にも繋がります。

 

人の思考行動はそれぞれの環境に適応した結果違うので、当然衝突してしまうこともある。あちこちで衝突が起きると秩序が保てないので、予め「法律」として規定を定めておく。

 

というだけのことです。

つまり、人はそれぞれ違うという前提があって、

 

”その違いの差をできるだけ埋めましょう”

 

っていう話ですよね?

 

しかし、一般的には

 

・正しさは決まっている

・それがわからない人がいる

・だからその人を罰するために法律がある

 

という感じで捉えられているのではないか?と思います。

 

秩序も場合によっては「正しい状態」と訳される場合もあるし、その秩序から外れている人のことを「秩序を乱す人」と捉えることも多い。

 

秩序とはそういうことではなくて「安定した状態」「調和のとれた状態」なので、

 

”それはどうすればそうなるのか?”

 

を考えることであって、

 

”秩序を乱す人を刑罰によって「排除」する”

 

ことではないということですよね?

それだと調和ではなくて「選別」になる。

 

 

このように、「罪刑法定主義」という概念を通して考えても、そもそも統一された正しさというものはなく、人はそれぞれ違うという前提で見ていかないと、調和の取れた状態にはならないということがわかりますね。

争いの種

どうも、おっさんです。

 


www.youtube.com

 

まず、この動画を見てみて下さい。

 

右の女性のシャツが何色に見えるかという内容の動画で、この女性は日本人で他の二人は日本人(日本育ち)ではないようです。

 

日本人の女性はシャツの色を「黄色」と認識していて、他の二人は「緑色」と認識しています。黄色じゃなくて黄土色(中間色)では?と思う人もいるかもしれないですが、「黄色」に分類されるか「緑色」に分類されるかという話です。

 

この動画はライブ配信の切り抜きで、ライブ配信中のコメントで何色に見えるかということを聞いていますが、これを見ているのは日本人が多いようなので、そのコメントでは「黄色」だと言われています。

 

しかし、日本人以外の人は「緑色」というのが一般的ということがわかり、(この中では)日本人だけがこれを「黄色」と認識していることに気付いたわけですね。

 

彼女はこれが「カルチャーショック」だよ、自分の中で当たり前のことが当たり前じゃないことがあるんだよと言っています。

 

これがどうして起こるのかを考えると、原因は色々とありますが

 

日本人はこの色を「黄色」と認識するようになっている。

それ以外の人はこの色を「緑色」と認識するようになっている。

 

ということです。(一般的にということ)

それだけの事なんですよ。

 

 

動画を見てもらうとわかるように、この場では「それはおかしい」とお互いが言い合ってますよね?険悪な雰囲気ではないですが、自然と「どっちが正しいか」という流れになっているのがわかります。

 

で、最終的に日本人の女性が「日本人は色の感覚が”世界の基準からずれている”」ことを知った方がいいと言っていて、コメントで「ショック」と言っている人もいますね。

 

これが、一般的な人間の思考行動です。

 

何か(よくわからない)差異を発見すると「どっちが正しいか」を判断しようとし、その根拠は大体の場合「数が多い方」になり自分が多数派だと嬉しいし、少数派だと悲しい。中央の女性は「緑色」が多数だとわかってなんだか嬉しそうに笑ってます。(これは私の印象ですが笑)

 

そもそも、この違いは「カルチャーショック」と言っている通りに文化の違いによるもので、文化の違いというのはその土地の環境の違いによって起きるものです。

 

そこに「正しさ」なんてないんですよ。

 

だから上で書いている通りに、それぞれ違う認識をするようになっているだけなんですね。

 

それが理解できないから

 

日本人の感覚が世界とずれている=”日本人がおかしい(間違っている)”

 

になっちゃうわけですね。

仮に、日本人が世界の人口の過半数を占めていたとすると、今度は

 

”世界がおかしい”

 

になるだけですよね?

 

 

これらのことから、人間って一体何をしているのかということを考えると

 

・自分が正しいと思っている(思い込み)

・多数派=正しいという思い込み

・だから多数派だと嬉しい

・嬉しいのは自分が正しいことが証明(承認)されたから

 

ということで、自分が正しいかそうでないかみたいなことを無意識にやっているわけですね。

 

自分が正しい状態になってないと「不安」なので、お互いが正しさを主張し合うことにしか興味が行かなくなる。

 

・どうして日本人は「黄色」と認識するんだろう?

・それは「黄色」と認識をする文化(環境)で育ったからだよ

 

という思考が起きないんですね。

郷に入っては郷に従え

どうも、おっさんです。

 

昨今の地方の過疎化に伴って、都会から地方への移住が積極的に推進されているわけですが、その一方、移住先でのトラブルも起こりやすくなっているようですね。

 

先日も、ある過疎化が進んだ地方集落で、移住者に対しての発言が物議になったりしていました。

 

 

昔から言われている「郷に入っては郷に従え」ということばがありますが、

 

”その土地に入ったら、自分の価値感と異なっていても、その土地の慣習や風俗にあった行動をとるべきである”

 

という意味です。

処世術というか、トラブルを避けるための考えですね。

 

しかし、これの意味がわからない人は結構いるようで、上記の移住者に対しての発言が物議になった件でも、移住者を擁護する声が大きいなと感じました。

 

 

「郷に入っては郷に従え」が何故正しいのかは、ハビトゥス暗黙知によって説明できます。

 

nicolarossi.hatenablog.com

この記事でハビトゥス暗黙知は説明してますが、人は生まれ育った環境への適応を無意識下で半ば自動的に行っています。

 

なので、その人の行動は生まれ育った環境依存の行動であり、他の環境で育った人とは行動原理が異なっているということになります。

 

しかも、無意識で習得しているので、ほとんどの場合本人はそれに気付きません

 

移住者とは、ある土地で育った者が他の土地へ移り住むことですよね?その移り住んだ土地にはその土地で育った人がいて、その土地の環境に適応した行動をしています。

 

つまり、ここに正しさがあるとするならば、その土地で育った人が取っている行動が「正しい」わけですね。

 

誤解のないように補足しますが、全ての人に対応した”正しさ”はないです。

それは、説明している通りに人の行動は育った環境に依存しているからです。

 

であっても、移住者と元々そこで生活している住人を比較した場合、人の行動は環境依存なのだから、その土地(環境)の人の行動が”正しい”と言えるわけです。

 

 

そもそも、移住する人は何を目的に移住するのでしょうか?

支援金が入るから?比較して安く家が持てるから?自然豊かだから?

もちろん、理由はそれぞれ違うでしょう。

 

しかし、「郷に入っては郷に従え」と昔から言われている通りに、その土地に対する”リスペクト”がなければその土地からの信頼は得られないし、自分から見てリスペクト出来ない土地には住むことができないということでもありますよね?

 

結局は、「自分がどういう行動をするか」ということであって、全て自分の責任でしかないということになります。

 

その辺りを昔の人は良くわかっていたということですよね。

 

 

移住のアドバイスとして、最初から小規模の集落に移るのはお勧めしないというのがあり、大きめの都会から地方へ移る場合は、一旦は市町レベル程度のところに住んでみて、それから考えましょうとなっています。

 

都会で育った人のハビトゥスと、小規模集落のハビトゥスとでは違い過ぎるので、いきなり馴染むのは無理という話ですね。