どうも、おっさんです。
のつづき。
ほとんどの場合、無意識に適応した環境の違いによる行動の結果を「努力」だと勘違いしていて、それらのことを理解していないので辻褄の合わない社会になっていますよという話でした。
前回、フランスの社会学者ピエール・ブルデューが提唱した「ハビトゥス」で説明しましたが、この「ハビトゥス」によって身に付けた物事をブルデューは「資本」としています。
”資本”と聞くとまず「お金」が思い浮かびますが、広く言うと「価値」のことです。
例えば、私がロードバイクで走るというハビトゥスに基いた行動をした結果、ロードバイクをある程度上手く走らせることができるようになったことも、「資本」になっているということですね。
手にしている学歴はもちろん、芸術だったり運動だったりで得た知識や技能など、もっと一般的にすると読書だったり映画だったり音楽だったりの経歴や知識。
全部「資本」で、こういう資本のことを「文化資本」としています。
他には友人だったり知り合いだったりの繋がり(人脈)を「社会資本」とし、お金はそのまま「経済資本」です。
人はこれらの資本を持ち寄って優位性を競います。
でも、その資本ってハビトゥスによって半ば自動的に得たものであって、本質的には優劣はないんですよね。環境に適応しただけなので。
で、何故優劣を競ってしまうのかというと、承認欲求があるからです。
・違う環境で育つと違う適応状態になる
・その適応状態の違いを「優劣」に置き換えている
・それは適応値を「努力」の結果だと勘違いしているから
もっと大きく考えてみましょうか?
地球規模で見ると、国や地域によって言語や文化が違うのはその土地の環境が違うからだし、生息している動物や植物もその土地の環境で違っている。
太陽系規模で見ると、太陽や他の惑星の影響を受けて地球という惑星の環境があり、それは地球の寒暖差等の環境へ影響を与えている。
宇宙規模で見ると太陽系もその宇宙環境の影響を受けて活動している。
解明されていないけれど、その宇宙も他の宇宙の影響を受けているかも?
そんなことみんな知っていると思うかもしれないですが、こうやって環境からの影響を考えた場合、人間だけ環境からの影響はない、あるいはその影響は薄い、その人単体で自律行動している(だから努力が有用)と思ってしまうのか?という”おもしろさ”なんですよ。
ハビトゥスによる行動を「自由意志」だと勘違いしているわけなんですが、私が高校生の時に他人に対して「どうしてやりたいことをやらないんだろう?」って思ったのは、その勘違いに当てはめると「どうして自分のハビトゥスに従わないんだろう?」になりますね。
しかし、「やりたいことをやらない」というよりも「やりたいことがわからない」の方が適切で、上記のように言い換えれば「自分のハビトゥスがわからない」状態と言えます。
ただし、私は自分のハビトゥスがわかっていたわけじゃなくて、自分のハビトゥスを邪魔されない状態だったというか、他人からの干渉を受けにくいハビトゥスも備わっていたのかもしれません。
環境に合わせてハビトゥスは変化していくわけですが、その変化が自然であるほどストレスは少ないわけで、無理やり変化させられると元のハビトゥスと乖離してしまいどうすればいいのかわからなくなってしまう。
そういうことも全部ひっくるめて、私は自分のハビトゥスがわかりやすい環境で、他の人はそれがわかりにくい環境かもしれないし、そもそも正規分布の平均値に近いほとんどの人は、他の人もやっている平均的なことをやりたいと思うハビトゥスなんだろうなと。
あらわれた現象は、全てそれに対する環境の影響を受けた結果なので、その現象(があらわれる過程)に対して優劣を付けることが矛盾していて、結果がその社会で望ましいものでない場合は、そうならない為に社会全体でどうすればいいかを考えることなんですね。
何故なら、その社会であらわれた現象(結果)は、その社会環境の影響により生まれたものなのだから。(つまり、特定の誰かや団体の責任というわけではない)
とは言っても、そもそも人は(環境に適応した結果)それぞれ違うのだから、何が正しくて何が間違いなのかを完全に統一することは根本的に無理なのですが。