どうも、おっさんです。
書きたいことはそこそこあるんですが、とりあえず私の思考の整理をしてみたいと思います。
今までも「人間の思考」について色々と書いてきたのですが、そもそも何故それを書いているのかというと、ずっと違和感があるからですね。
ロードバイクに乗り始めてからも、「え?どうしてそうなるの?」っていうことが結構多いと感じていて、そのことに関して考えていくと、ほとんどの人はその行動が矛盾していることに気付いていないんだとわかったわけです。
というか、単に私の見ている世界とみんなが見ている世界が違うだけで、私はどちらかと言うと少数派なんだなぁと。(まぁ、これは小さい頃からわかっていたことですが笑)
で、それが良いとか悪いとかという話ではなくて、ただ「おもしろい」なと感じているのです。
何度も書いていることですが、世の中の人は大きく分けて「主体的」な人と「受動的」な人に分かれていて、「受動的」な人の方が圧倒的に多いです。簡単に言うと「自分が何をしたいのかわからない人」のことで、私が一番印象に残っているのは高校生の時に、ほとんどの人は「とりあえず大学に行く」という感じだったのを「え?なんで?」って思ったこと。
それが悪いってことではなくて「どうしてやりたいことをやらないんだろう?」っていう疑問ですね。仲良かった友達に聞いても「そんなもんでしょ?」みたいな回答だった。
でも、結局は「そんなもん」なんですよ(笑)。
上記の通りに「私の見ている世界とみんなが見ている世界が違う」というだけで。
人間に限らずあらゆる生命体(現象)は、その生まれ落ちた環境に対応して活動するように出来ているんですが、例えば日本人の家庭に生まれれば自然に日本語を理解するようになるし、日本の文化を実体験で自然と理解するようになる。同じようにアメリカだったらアメリカ英語を話し、アメリカの文化を実体験で理解するようになる。
全て自然に。
深海生物が深海に生まれれば、当然その深海で活動できるようになっている。
自然にその環境で活動できるように出来ているわけですね。
特に努力とかしなくても自然とその環境に適応するわけです。
よく、「過酷な深海の環境で生きている」とか深海生物は言われますが、深海生物からすると私たちが生活している地上の方がよほど「過酷な環境」なわけで(笑)。
同じ日本人でも裕福な家庭に生まれた人と、そうでない家庭に生まれた人では適応の仕方が違うし、「田舎と都会」「沖縄と北海道」など同じ日本人でも環境の違いはあるわけですね。
「違う環境で育つと違う適応状態の人になる」という当たり前の話です。
ただし、統計で言うと「正規分布」によって平均値付近に分布が集積するので、平均値が一番多い状態になり、そこに分布する人を中心に「普通」という概念が発生する。
逆に言うとその「普通」から離れた人も”必ず”存在するわけで、その分布は+方向と-方向にあって、それが例えば「学力」であれば+は良いとされ-は悪いとされる。
適応状態が違うだけなのに良し悪しが相対的に決められてしまうわけです。
それは何を根拠に言っているのかというと「努力したかしてないか」。
しかし、その「努力」と言われているものはただの「環境適応」なので、生まれ落ちた環境によって左右されているだけで、一般的に言われている「努力」とは関係ない。
この意味がわからないことがほとんどなのだろうなと。
深海生物が過酷な深海で”頑張って”生きているという勘違いと同じで。
つまり、「学力」という値であればその環境にどの程度適応出来ているかがわかるだけで、その人が努力したかしてないかは関係ないということになり、そこに対して「努力しろ」という指摘は間違っていると言えます。
深海生物を陸に揚げて「生きろ」と言っているようなもので。
なので、どうすればその環境に適応できるのか?を考えなければいけないし、そもそもその人は違う環境に適応しているのだから、「学力」という値では判断できないわけですね。
深海生物は深海で生きるのが自然なのです。
まとめると、生まれ育った環境によって人の特性は違ってくるという事実があるが、正規分布の平均値に特性が集積し、その特性が自然に「普通」と社会で認識される。それはそもそも環境依存の特性の違いなのに、その「普通」から離れている人は異常だと判断され、+値であれば尊敬され-値であれば軽蔑されたりもするということ。