どうも、おっさんです。
「”暗い”と不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」
というカトリック教会が提供するラジオ番組のキャッチコピーがあるんですが、これを聞いて”そうだよな”と思う人は多いんじゃないかと思います。教会側もこれが広がれば良い世の中になるという考えがあるでしょう。
しかし、前回の記事
で、世の中が良くなるような行動を起こしている人は少ないし、それはそもそもそういうエネルギーがないからそうなっているということを書きました。
「不平を言う前に行動しましょう」というのと、「良くならないのは良くなるような行動をしていないからだ」というのは、本質的には同じことを言っています。
暗かったら、不平不満を言うよりも自分で明りを点ければいいってことなんですが、これをそのまま受け取ると「ほとんどの人はできること」だから”できるだろう”と勘違いしてしまいます。
どういうことかというと、そもそも「不平」というのは”自分で解決できないから”起こることで、暗いなと思って明りを点けられる人は”自分で解決できるから”不平が起こらないということなんです。
つまり、「不平を言う前に行動する」のではなくて、そもそも自ら行動している人は不平が起こりにくいということです。
これを私は「そういうエネルギーがない」と言っています。
ということは、”暗い”と不平を言っている人は「あかりをつけることができない人」なので、その人に「あかりをつけましょう」と言ってもつけられないのだから、一生解決しないわけです。
多くの人は自分ができないことに気付いていないということになります。
私はゲームをするのが好きなのですが、ポケットモンスターの最新作「スカーレット・バイオレット」でポケモンを預ける為の”ボックス”という機能があって、そのボックスを開くと横6×縦5の計30体のポケモンが表示されます。
最新作はオープンワールドになったり、その辺を多くのポケモンが歩き回っていたりするので、かなり処理が重く動作が不安定な場面があります。その所為でボックスを開いた時の動作も重くなり、ボックス内のポケモンの表示がもたつくこともあります。
私は、それがそんなに気にならなかったのですが、一般的には不満の声が大きかったのでしょう、有料の追加コンテンツの配信に合わせてのバージョンアップで、ボックスの表示速度が改善してほぼパッと表示されるようになりました。
ネットで反応を見てみると、発売から10ヶ月程度経ってからの改善だったので「今更遅い、もっと早くやれ」とか、「技術力がないからだ」とか言われていました。
当初、Switchの性能が低いからボックス表示が遅くても仕方ないと擁護の声もあったので、それが改善したのだから「やっぱり技術の問題じゃないか」という反応です。
実は、私はこの改善があった時に、ボックスの表示速度が速くなっていることに気付きませんでした。
それは、そもそもボックスの表示速度にそれほど不満がなかったからというのもあるのですが、はじめは別の部分が変わっていることに気付いたからです。
バージョンアップ後、初めにボックスを開いた時に「あれ?なんか表示ぼやけてない?」「モニターの設定なんか変わったかな?」と思ったのですが、その後にボックスを切り替えながら見ていると表示が速くなっていることに気付いたんです。
1.ボックス内のポケモンのアイコンがぼやけている
2.ボックスの表示速度が速くなっている
つまり、ボックスの表示速度を改善する為にアイコンの解像度を下げた結果、表示がぼやけて見えているということなんですね。
ちなみに、この表示がぼやけたことは携帯モードで本体の画面で見ている分にはほぼ気にならないですし、それから時間が経った今は違いがわからなくなりましたが、TVモードでモニターに表示しているとぼやけているのが今でもわかります。
開発陣は、みんなが不満に思っているボックスの表示速度を上げる為に、この”ぼやけ”を許容してアイコンの解像度を下げることにしたというわけです。
私は、ボックスの表示速度にそれほど不満がなかったので、このぼやけたアイコン表示に違和感があるのですが、一般的にはこの”ぼやけ”は気にならないのでしょうし、ネットの反応を見てみても解像度が下がったことに気付いている人はほとんどいないので、これが世間一般の正解なのでしょう。
TVモードは1080pで表示されているわけですが、アイコンがぼやけているということはそれ以下の解像度になっているということです。本来の解像度で表示すると多少のもたつきが発生してしまうのだから、もたつきがない状態が正義なのであれば、Switchにはその能力がないということになるわけですね。
で、「開発の技術力の問題」でボックスの表示速度が遅かったわけではなく、やっぱりSwitchの能力が低いことに原因があったということは変わりないので、「技術力の問題だ」と言っている人は”よくわかっていない”ということになります。
こういう話は一例で、世の中ではこういうことが基本的にあちこちで起こっているわけですが、何かを作り出している人というのは「行動している人」で、その行動により生み出されたものを受け取っている側がいるわけですよね?
私がよく言う「主体的」「受動的」の話なんですが、そもそも「主体的」な人というのは集団の中で少数派なんですよ。「受動的」な人の方が圧倒的に多数派で世の中はその多数派に引っ張られるので、結果的に生み出していない側が生み出している側に要求するという構図になります。
何かを生み出すという行為は、その生み出されたものの過程をある程度は理解しているという事実があります。逆に、それを受け取っている側というのは、できたとしても表面的なことを浅くしか理解することができません。よくわかっていないということです。
なので、行動することで理解が深まるのだから「行動しましょう」と言うわけですが、行動できる主体的な人は集団の中で少数派なので、結局は多数派である受動的な人の意見が世間では正しいと認識されがちなんですね。(正規分布なので変えようがない)
「”暗い”と不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」
あかりをつけられないから暗いと不平を言うしかないわけです。
何故あかりをつけられないのかというと、あかりのつけかたがわからないからなので、”すすんであかりをつけましょう”と言われてもできないんですよね。