どうも、おっさんです。
前回の記事
までの話をまとめると
・人は環境に自動的に適応するようになっている
・その環境は様々なのだから適応状態も様々になる
・その様々な適応状態が人の思考行動にあらわれる
・なので、あらわれた思考行動の違いに「正しさ」はない
・しかし、”無意識”にそれを比較して「正しさ」を求めようとする
ってことです。
前回の記事では、文化(環境)の違いによって色の見え方や区分が異なったりすることがあるけども、その違いを実際に経験しない限り「みんな同じだろう」と思い込んでいるし、その違いがどうして起こるかということよりも、「どっちが正しいか」を求めようと思考するのが一般的な行動だとわかりましたよね?
で、その根源は「自分が正しい」と思っているから。
そこに「正しさ」はないんだけど、自分が正しい状態でないと不安なので”無理やり”「正しさ」を見つけようとして、根拠をどこからか持ってきているだけです。
その持ってくる根拠は「努力してるかしてないか」とか「多数派である」とかなので、環境に適応した結果あらわれた人の思考行動の正しさを求める根拠にはなってないのですが、自分が正しい状態になっていないと不安なので、それがおかしいことに気付かないわけです。
とは言っても、社会の秩序を保つにはある程度の協調が必要で、それぞれの人が自由奔放に行動していたらあちこちで衝突が起きてしまいます。車両が道路の左右どちらでも走って良いならあちこちで事故が起きます。
秩序が保たれているということは「安定する」ということで、反対の不安定な状態よりも物事を進めやすく余計な労力がかからないわけですね。なので、その為にしてはいけない行動を予め「法律」として規定しておくということです。
「罪刑法定主義」という概念があって、これは
”ある行為を罪として罰するには、罪と罰を予め明確に規定しておかなければならない”
ということです。
この概念がなければ、後から定められた法で裁かれるということが起こってしまうから。その場合、恣意的に人を罰することもできてしまうわけですね。
日本国憲法にも
第三十九条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
とあります。
これらのことから法律を「正しさ」と言っても良いような感じがしますが、私は法律でさえ正しさではないと考えています。
それは、法律も改正されたり廃止されたりするからです。
ある時は正しかったものがそうでなくなったりするわけです。
時代や環境の変化に合わせて改正や廃止が行われる。
正しさはないから従わなくて良いという話ではなくて、ある程度の秩序を保つための協調にしか過ぎないということです。
これは、前提として「自由」という概念があるので、その前提を考えるとそうなってしまうし、自由とは環境に適応した結果あらわれたその人の思考行動のことなので、そこに正しさはないという話にも繋がります。
人の思考行動はそれぞれの環境に適応した結果違うので、当然衝突してしまうこともある。あちこちで衝突が起きると秩序が保てないので、予め「法律」として規定を定めておく。
というだけのことです。
つまり、人はそれぞれ違うという前提があって、
”その違いの差をできるだけ埋めましょう”
っていう話ですよね?
しかし、一般的には
・正しさは決まっている
・それがわからない人がいる
・だからその人を罰するために法律がある
という感じで捉えられているのではないか?と思います。
秩序も場合によっては「正しい状態」と訳される場合もあるし、その秩序から外れている人のことを「秩序を乱す人」と捉えることも多い。
秩序とはそういうことではなくて「安定した状態」「調和のとれた状態」なので、
”それはどうすればそうなるのか?”
を考えることであって、
”秩序を乱す人を刑罰によって「排除」する”
ことではないということですよね?
それだと調和ではなくて「選別」になる。
このように、「罪刑法定主義」という概念を通して考えても、そもそも統一された正しさというものはなく、人はそれぞれ違うという前提で見ていかないと、調和の取れた状態にはならないということがわかりますね。