おっさんの外部記憶装置

40代おじさんのブログ

物事が続かない原因

どうも、おっさんです。

 

私のブログではちょくちょく出てくる(笑)、某初心者向けブログで「ロードバイクに乗らなくなる理由」的な記事がありました。私もよく題材にしている内容なんですが、他のブログの「女性が乗らなくなるのは方向音痴や機械が苦手等の理由があるから」という記事に対して書かれたものです。

 

内容を簡単に書くと、「辞める理由は問題じゃなくて、単に”本当に好きじゃないから”乗らなくなるんでしょ」ということでした。「本当に好き」ならどんな理由があっても続けるはずだと。

 

ただ、私の場合は「じゃぁ、その”本当に好き”ってどういう状態なんだ?」ともう一歩踏み込んで考えたいんですよね。

 

まぁ、考えると言っても答えはもう私の中では出ていて、それは以前から触れているように

 

「脳が勝手にそういう判断をしているから」

 

というだけなんですよね。

この辺りの考察はこの記事

nicolarossi.hatenablog.com

で書いてあるので、興味があればどうぞ。

 

「好き」って人間が作り出した「ただの概念」で、好んで行っていることや対象があるということなんですが、それに「本当」と「嘘」があるってことですよね?ブログ記事の内容だと「”本当に好き”なら続く」んだから、続かなかったらそれは「嘘」だったということになっちゃいますよね?

 

本当にそうでしょうか?

 

私も今のところロードバイクに乗っていますが、これが今後も続くかどうかなんてわかりません。もし続かなかったら、今のこの行動は「嘘」だったということになります。他人がどう思うかは知りませんが、私自身は今現在「ロードバイクを走らせるのが楽しい」と感じて走っているわけです。じゃぁこの今感じていることも「嘘」ということですか?

 

なんというか、この「本当に好き」っていう考え方って、その好んで行っている物事が続いていることに対しての単なる「理由付け」の意味しかないように私は思いました。つまり、「どうして続いているのか?」という疑問があった場合だけ通用する考え方なのではないか?と。

 

なので、「続かない=本当に好きではなかったから」というのは違うかなと。

 

私は上で答えを言っているように、単に脳が「必要か必要でないか判断しただけ」だと考えます。これは、状況判断なので時間と共に変化するし、その変化する要因はその経過した時間内でどういう経験をしたかでも変わってきます。

 

例えば、私が書いた記事で

nicolarossi.hatenablog.com

「辞めるのも続けるのもその人(の脳)の過去の経験次第」と書いています。

その経験によって今現在の状況判断が「勝手に」されるということです。

 

上の記事内で書いてあるブログの方はロードバイクに乗るのを辞めちゃったわけなんですが、この人も何かのきっかけで「ロードバイクを走らせるのって楽しい!」という経験をしていたら、私と同じように今もロードバイクで走っていたかもしれません。

 

このブログの方の事象を見て「本当に好きではなかったから」辞めたとも言えますが、では対になる私は「本当に好き」だから今ロードバイクで走っているということになりますよね?でも、この状態が続くかどうかなんてわかりませんよ?これからの経験によってこの今の状態が変化する可能性だってあるんですから、その時になったらやっぱり「嘘」だったということになります。おかしいですよね?

 

このように考えても「本当か本当ではないか」というのは、続けるか辞めるかの原因にはならないのでは?と私は思います。状態に対する単なる「理由付け」なだけで。「好き」という言葉を使うのであれば、好きという「状態」が続いているか、そうじゃなくなったか(変化した)ということだけということです。

 

「好き」というのは「ただの概念」と書きましたが、どうして「好き」という感情があってそれが物事を続ける方向へ進むのかというと、脳が

 

「生きるのに都合が良い」

 

と判断するからです。

「何を大袈裟な」とか思うかもしれませんが、人の行動って全部コレですよ?

 

前にちょっと書きましたが、「生きる」というのも人間が勝手に作った「ただの概念」であって、宇宙の誕生からずっと辿ってきて今私たちや他の動植物等がいて生活している、この状態を「生きている」と言っているだけなわけです。その「生きている」という状態は、宇宙の誕生からの「経験」によって「たまたま」今この状態になっているだけで、それは宇宙の誕生からの「エネルギーの方向性」によって「たまたま」今この状態になっていると言えるわけなんですね。

 

つまり、今現在のこの世界の状態は、宇宙の誕生時に生まれた「エネルギー」が、「進むのに都合がいい」と判断し続けてこうなっていると言えるんです。なので、「生きる」というのはそういうエネルギーの方向性を人間が勝手に「概念」として表しているだけだということです。

 

ということから、人が物事を続けるのは「生きるのに都合が良いから」で、物事を辞めるのは「生きるのに都合が良いとはいえないから」と言えるんですね。

 

あ、続けるか辞めるかで言うと、そのどっちかでバッサリ二つに分かれてしまいますが、実際はグラデーションで「都合が良い」と判断されるほど優位になって、「そうでもない」と判断されるほど劣位になっていくということになります。

 

ちなみに、女性がロードバイクを辞めていく理由に関して「方向音痴」が挙げられていて、某初心者向けブログの方は「方向音痴に優位な男女差はない」と指摘しています。

 

で、「方向音痴」という人は実際に存在しているわけですが、そういう人って本当に「方向音痴」なんですかね?もちろん、道を覚えるのに時間がかかるとかはあるでしょうが、自分の家がわからないとか、自分の働いている会社に辿り着けないとかないですよね?

 

「生きるのに必要な事なら習得できる」わけです。方向音痴なのは脳が勝手に「道を覚える必要がない」と判断しているだけだとも言えます。方向音痴に関わる能力で「空間認知能力」というのがありますが、ここが弱いので方向音痴なんだと言われます。でも、この能力は高い低いはありますが鍛えることができます。上記の通りに、過去の経験から「必要なし」と脳に判断されている人はスイッチがOFFになっているだけだとも言えますね。

 

私は自発的に行った場所への道はすぐに覚えますが、他人に連れられて行った場所への道は覚えてません(笑)。だから、他人に連れられて行った場所へ一人で来てと言われても行けません(笑)。もちろん今は便利なスマホがあるのでマップを参照すれば辿り着けますが、これも「必要でない」と判断された物事は切り捨てられるんですね。

 

あとは、「私は方向音痴である」という思い込みですよね。方向音痴なんだから道なんか覚えられないという思い込みで「道を覚える」という気すら起こらない。するとその能力は使われないわけですから「必要なし」と判断されて方向音痴のままなわけです。

 

私は、基本的に人には「素質(初期能力)」の違いはあるにせよ、能力自体が「欠落」しているということはないのではないか?と考えています(もちろん、例外はあると思います)。なので、その能力が「欠落」しているという思い込みや勘違いで、能力を発揮できていないだけなんだと思うんですよね。

 

ロードバイクにしても、ちゃんとトレーニングすれば人によって差は出てくるにしても、楽しく走れる状態まで能力を上げることはできると考えます。ただ、そこに至る前に「過去の経験」から脳に「必要なし」と判断されるとそこでもう終わっちゃうわけです。

 

筋トレしている人がよく言っているのが、「その筋肉が必要だと脳を騙す」ということです。私が言っていることを逆手にとっているわけで、つまり、脳が「この筋肉は生きるのに都合が良い」と判断するように持って行くということです。

 

ロードバイクのトレーニングも同じことで、ロードバイクを走らせる能力を「生きるのに都合が良い」と脳に判断させることができたら、その能力は伸びていくということです。さらに好循環に入ると、その能力を伸ばしていくことも「生きるのに都合が良い」と判断するようになるので、さらに能力は伸びていく可能性も高くなるし、ロードバイクを走らせること自体も続いて行く可能性は高くなるんですね。

 

基本的に人間は(人間に限らないですが)「しんどい」ことは避けます。ロードバイク等の運動は一般的にはその「しんどい」ことなので、それを継続していくことは難しいです。なので、いかにその行為を「しんどい」と脳に判断させないかが重要になってきます。どうすればいいかは私がこれまで書いてきたように、「ちょっとずつ”自分の限界”を超える」ということなんですね。

 

でも、今の情報社会では「これぐらい出来て当たり前」という情報が目に付きます。「100km走れて当たり前」「30km/h巡航出来て当たり前」等の情報です。こういう情報にどうして踊らされるかというと、それは「承認欲求」という欲求があるからです。

 

自分で経験・体験したことではなく、他人が言っていることに対して「そうしなければいけない」という思い込みから「ちょっとずつ”自分の限界”を超える」というプロセスをスキップしてしまう。そうなると、自分の限界を「大きく」超えてしまうので、「しんどい」が大きくのしかかってきてしまうんですね。

 

そうなると続けることは難しくなってしまいます。

 

このように、他者からの評価に対しての行動は多くの場合デメリットになります。なので、他者からの評価(承認欲求)で動くのではなく、自分が実際に経験・体験したことに対して動くということが重要なわけです。これがストレスなく(少なく)進んでいく唯一の方法だと私は考えます。これは、運動に対してだけではなくて、ロードバイク界隈ではよくある「機材の評価」に対しても同じことが言えます。

 

このようなことから、物事が続かないということが起こりやすい状態というのは「承認欲求に左右される」状態と重なるのではないか?とも私は考えています。

 

上で書いたように、「生きる」ということは「エネルギーの方向性」を言い換えているだけだと私は考えますが、生きている自身のエネルギーの方向性は「自分自身の方向性」で、「承認欲求に左右される」とすればその自分自身の方向性が揺らぐことになります。(これがストレスです)

 

つまり、生きている自身のエネルギーを自分の思う通りの方向へ進めるには、そういう他者のエネルギーである「承認欲求」に影響を受けないようにするのが最適ということです。

 

なので、自分自身が発しているエネルギーに集中するということが大切ということ。

 

例えば私の場合「ロードバイクを走らせるのが楽しい」わけですが、そのロードバイクを走らせる時に発しているエネルギーに集中するということです。ここに、「パワーは300w出ていないといけない」とか「40km/h巡航できていないといけない」とかの他者からの評価というエネルギーが入り込んでしまうと、自分自身のエネルギーが揺らぎやすくなってしまう。ということですね。

 

他にも、「コンポは105以上でないといけない」とか「カーボンフレームでないといけない」とか、そういうことも含まれます。

 

そういう他者目線の承認欲求に惑わされると、自分が今何をしないといけないのかがわからなくなります。

 

自分自身の行動を他者に決められているということです。

 

そのような状態になるということも、物事が続かない原因の一つなのではと思います。