どうも、おっさんです。
前回の記事
で、「罪刑法定主義」という概念から見ても、決まった正しさというものはなく、人はそれぞれ違うという前提で見ていかないと秩序は生まれないのでは?という話をしました。
最近、飲食店での迷惑行為をSNS等に投稿して問題になっていますが、反応を見てみると、「厳罰に処して今後こういうことが起きないように見せしめろ」という意見が多いようですね。
それもありだと思うのですが、現実問題としてみんなが思っているような「厳罰」な処分は難しいのではないか?という見方もあります。
これは、どの法律が当てはまるのか?とか、これまでの判例とかに沿って考えるとそうなるという話です。つまり、現在の法律で定められている罪と罰では、みんなが求めている「厳罰」にはならないですよってことですね。
「罪刑法定主義」への反論で、「想定されていない罪が出現した場合に対処できない」というものがあります。
これを罪刑法定主義の”欠点”だと言うこともできるのですが、そもそも「人はそれぞれ違う」という前提で罪刑法定主義という概念があるわけなので、罪はその出現した違いを埋めるための役割として存在するため、想定していない違いに対処するものではないのです。
ちょっとわかりにくいかもしれないですね。
別の角度から話してみます。
今回の飲食店での迷惑行為を見知った時に、みんなはどういう感情を持ったのでしょうか?反応している人を見てみると
「え?どうしてこんなことしてるの?」
というのが大体の第一印象のようです。
見た瞬間に「これは○○法○○条違反だ!」と反応した人はほとんどいないでしょう。
・何かおかしなことをしている=悪いことだ!
・悪いことをしている=罰せられて当然
・これは何の法律に違反しているのか?
・どんな罰を受けるのか?
っていう順番ではないですか?
つまり、法律違反をしているから「悪い」という理屈ではなくて、”理解できないことをしているから「悪い」”という反応ですね。
ほとんどの人は「自分が正しい」と思い込んでいますよっていう話をしていますが、自分の理解の範疇を超える現象に出会うと、それを自動的に「間違っている」と判断してしまうんですよ。自分が正しいから。
いや、これは衛生的に見て間違った行動だから「間違っている」だろ。
って思いますよね?
それは、その通りです。
ただ、”自動的に間違っていると判断してしまう”という部分が問題になります。
この記事
での色の見え方の違いも同じ理屈ですよね?
この場合の色の見え方に正しさなんてないのに、お互いに相手のことを「おかしい」と思ってしまっているでしょう?で、何の根拠もない「多数派」が正しいとなっています。
つまり、今回のような迷惑行為に対して憤っている人は、「自分が正しい」という思考行動をしていることになります。「人はそれぞれ違う」という前提ではないということですね。
なので、罪刑法定主義によって、罪と罰が予め規定されているということが理解できず、自分たちが望む「厳罰」にならないことに更に憤りを感じてしまうのです。
その憤りから法律がおかしいということも言い出します。
環境適応の結果「人はそれぞれ違う」という観点で今回の問題を見た場合、
・その人が育った環境によって今回の迷惑行為が起こった
・それが起きる環境とはどういうものなのか?を考える
こうなります。
・育った環境によって思考行動が違っている
・その育った環境は更にその周りの環境の影響を受けている
・親や地域が単独で存在しているわけではない
・それらの環境もまわりから影響を受けている
・憤っている人もそれら環境の一部
結局のところ「全体」の問題ということになります。
”罪を憎んで人を憎まず”
とは、こういうことを言っているんですね。