おっさんの外部記憶装置

40代おじさんのブログ

トロッコ問題

どうも、おっさんです。

 

「トロッコ問題」という思考実験があって、

線路を走っている制御不能なトロッコがあり、その先には5人の作業員がいてこのままではトロッコに轢き殺されてしまう。自分の目の前には線路の分岐があり、分岐器を操作して進路を切り替えれば5人の作業員は救えるが、切り替えた進路の先にも1人の作業員がいる。

この場合、進路を切り替えますか?

そして、その行為は許されますか?

という問題です。

 

「5人を救う為に1人を犠牲にしても良いですか?」という問いですね。

 

この問題には正解がなく、答えによってその人の基本的な思考が見えてくるというものですが、行動を起こして5人を救う(1人を犠牲にする)ことを選ぶ人は「功利主義」、何もしない(5人を救う為に1人を犠牲にすることを選ばない)人は「義務論」に従っていると言われています。※これを「功利主義」というのは違和感があるという意見もあります。

 

全体的に見ると、行動を起こして5人を救うことを選ぶ人が多いようです。

 

ところが、日本人の大学生で調査したところ「何もしない」を選ぶ人も多く、これは直感的には「行動を起こす」を選んでも、熟考すればするほど”判断に伴う責任から逃れよう”とし、「何もしない」を選ぶようになるからとのことです。

 

この”判断に伴う責任から逃れようとする”という思考が何故起こるのかというのも考察されていて。日本ではコミュニティが比較して流動的ではない為、他者からどう見られるかということも判断に影響するとしていました。

 

 

ちなみに、私はこの場合「何もしない」を選びますが、この問題を初めに見知った時に思ったのは「これってどういう状況?」ということ。

 

「こうなってたらもうダメでしょ」という感じです。

こうなる前に対処するのが正解という考え方です。

 

とは言っても、全ての物事に事前に対処できるわけではないので、起こったことに結果的な良し悪しを判断するのではなく、過程のどこに問題があるのか?を知ろうとするという話です。

 

それと、私は「何もしない」を選びますが、行動を起こすのも何もしないのもどちらも同じだと考えているので、「何もしない」からといって責任はないことにはならないと思っています。「何もしない」という”行動”によって5人が死ぬわけですから。

 

 

このトロッコ問題の派生もあって、

線路を走っている制御不能なトロッコがあり、その先には5人の作業員がいてこのままではトロッコに轢き殺されてしまう。自分はそれを線路の上に架かっている橋の上から見ていて、同じように目の前にいる太った人もそれを見ている。この太った人を線路に突き落とせばトロッコは止まりそうだ。

突き落としますか?

というもの。

 

1人を犠牲にして5人を救うという構図は同じなのに、こちらの場合は「何もしない」を選ぶ人が大多数です。「進路を変える」という間接的な行動は許されて、「突き落とす」という直接的な行動は許されないということのようですね。

 

この1人と5人は設定上「赤の他人」ということになっているのですが、例えば犠牲にしても良いという1人が家族や友人だったらどうするんですか?と問うと、これは「赤の他人」という設定だから1人を犠牲にすることを選ぶのであって、トロッコ問題の趣旨からずれると言っている人がいます。

 

一方で、家族や友人の場合は全力で1人を守るという人もいます。

 

つまり、何にしても家族や友人だったら1人を犠牲にする行動を選ばないということですよね?

 

ここに「矛盾」があるのですが、家族や友人なら犠牲にできないのであれば、その犠牲にした1人にも家族や友人がいるわけで、その人たちは家族や友人であるその1人を犠牲にしてほしくないと思いますよね?

 

であれば、1人を犠牲にすることを「許される」とは言えないのでは?

 

「突き落とす」が許されないと感じるのもこの辺りが影響していて、自分との関係性がある程度濃い場合は犠牲にすることを選べないのでは?「突き落とす」は自分が直接関わるのでそこに関係性が生まれるが、進路を変える程度であれば直接関わらないので関係性は薄い。

 

結局、自分と関係性があるかないかみたいな判断しかしてないのでは?

で、日本人の場合はその関係性の範囲が比較して広いのだと推測できますね。

 

これらのことを考えても、人間の判断というのは基本的に「恣意的」だということがわかりますね。