どうも、おっさんです。
前回の記事
の続き。
抽象的な本質から抜き出しただけの具体的な物事なのに、それを「対立」や「独立」した物事として認識してしまうのは何故なのか?を考察していきます。
まず、抽象的な本質から具体的な物事を抜き出せるのは、その本質を体感できた人だけです。そもそも、他人が体感できていないことを伝えるという行為は、それを体感できた人にしかできないことだからです。これが大前提です。
だとすれば、同じ事柄を別々の人が解説(発信)していたとしても、それらの具体的な物事は同一の本質から抜き出されたことになりますよね?つまり、具体的な内容がそれぞれで違って見えたとしても同一の本質への繋がりはあるということです。
この過程を”意識的であれ無意識的であれ”理解している人は、具体的に表された物事から抽象的な本質を探し出そうとします。そもそも、”それ(本質)が目的”なので必然です。
そうでない人は
「本質を探し出そうとしていない」
と言えると思います。
本質を探すことが目的になっていないということですね。
別の目的で動いているわけです。
誰かに何かを伝えたりそれを受け取ったりする為に言語を使うわけですが、これまで見てきたように相手が知らないことを伝えるのには適さないと私は思っています。そもそも、日本語は日本語を理解できる人にしか理解できないですよね?つまり、その言語を使う前提として「同じ事柄(文化)を共有している」ということが必要になる。
しかも、これは同じ日本語を使っていたとしても同様のことが言えます。例えば、何かの専門家が専門的な用語で話していたとすれば、専門外の人はそれが日本語でも理解が難しいということが起こります。(同じ事柄を共有できていない)
これは何故なのか?というと、言語が「差異」からできているからです。
差異を認識していない(知らない)ことには反応ができません。
その場合の反応は”知っているか知らないか”という差異への反応です。
例えば、リンゴは「その他のモノとは違う」からリンゴと呼びましょうということです。つまり、他のモノとの差異があるからリンゴと呼ばれるわけですね。
さらに、この「リンゴ」という名称は別にリンゴでなくてもかまいません。英語ならApple(アップル)と呼ばれますよね?モノとしてのリンゴと「リンゴという名称」に必然性はありません。他の名称でもそれを他人(共同体)と共有していれば通じるわけですから。
他にも、「ニワトリ」は英語でChiken(チキン)ですが、日本だとチキンと言われると食肉の方をイメージしてしまいます。日本では生きているニワトリと食肉になったニワトリを分けて(差異があると)認識しているということですね。これは違う文化では名称の意味が違う場合があるということです。
このことから、人間は差異に反応して物事を認識していることがわかりますし、言語自体が差異を認識(共有)するツールになっていることもわかります。それらは、属している集団によっても違うということもわかります。
言語学の分野では、このようなことば(言語)を通じて行われる意味づけの行為やその意味を読み取る行為を「記号現象」として扱っています。そして、それは人間が差異に反応して行われる行為なので、ことばに限らずそれ以外の行為でもこの記号現象が起こっています。
よく例として言われるのは「ブランド品」です。ヴィトンやエルメス等の品物に対してどんなイメージがありますか?一般的には高級で上品なイメージでしょう。そして、それを持つということはそのイメージを持つということにもなります。
これも「記号現象」です。
私が最近これはと思ったのは、携帯電話の「090」から始まる番号が高額取引されているらしいということ。とは言っても局所的なことで、みんなが「090」を欲しがっているわけではないとは思います。ネットで携帯電話番号に対するイメージを調べてみると「090」は携帯電話普及初期から使われている番号で、そういう”古参性”という価値イメージが付いているようでした。逆に、”古臭い”というイメージの人もいるようですが。他にも「070」のイメージは”安っぽい”になっている人もいました。(元々、PHSで使われていた番号だからのようです)
これも記号現象で、本来携帯電話の番号は単に識別番号の機能しかないのに、その番号に対して差異を見出し意味づけや意味を読み取るということをしています。そして、その差異に価値を見出し「上下」が発生していることがわかります。
このようなことが様々なところで自動的に起こるんですが、上記の携帯電話番号のように本来の機能とは全く関係ない意味づけをして「価値があるかないか」を見ているということは、機能(本質)への関心が全くないか薄いということになります。
大体わかってきましたね。
つまり、「本質を探し出そうとしていない」人はこういう思考で動いているということです。これは全ての場面で起こるということではなくて、人それぞれ対象になる場面は違ってくると思います。何故なら、ある程度その差異の価値を共有できる人がまわりにいないと成立しないからですね。(そういう”場”が必要)
「対立」や「独立」した物事として認識してしまうのは、その思考過程から見てみるとこれも必然だとわかりました。差異を「対立」させて(そもそも差異自体が対立関係)どっちが上か下かを意味づけしてしまうので、その結果”上”の方が(自分の中で)「独立」してしまうというわけです。
今回の話は言語学の「記号論」や、そこから発展した社会学の「構造主義」も参照しているので、興味がある方は調べてみることをおすすめします。人が大なり小なり何かに動かされているということがわかると思います。