おっさんの外部記憶装置

40代おじさんのブログ

ナイフとフォーク

どうも、おっさんです。

 

「主体的思考」と「受動的思考」に関してわかりやすく説明する為の例を探していたんですが、一つどうかな?と思うものがあったので書いてみます。まぁ、伝わるかどうかわからないのですが(笑)。

 

日本人だと、基本的にはナイフとフォークで食事をする場面はあんまりないと思います。なので、ナイフとフォークを使う場面というとなんだか特別なことになり、「マナー」がどうのこうのという感じのことになる場合が多いですよね。

 

ナイフとフォークで「ライス(ご飯)」を食べる時の「マナー」ってどういうものか知っていますか?そう、フォークの「背」にライスを乗せて食べるというやつです。これに対して「おかしいのでは?」みたいな意見があるんですが、実際にはどうなんでしょうか?

 

私もあんまりナイフとフォークで食事をする場面はないんですが、ファミレスなんかでグリル系のメニューを食する場合は使います。そして、パンよりもご飯が好きなので「ライス」を注文するんですが、フォークの背にライスを乗せて食べます(笑)。

 

ただ、私の場合「マナー」としてやっている感覚ではなくて、単にこれがナイフとフォークを使う場合に「食べやすい」からです。初めはやりにくかったのは確かですが、いつの間にか出来るようになって「普通」になりました。

 

一方で、「このマナーは間違いだ!」みたいに言っている人もいるんですが、私は間違いか間違いではないかとかどうでも良くて、上記の通りにナイフとフォークを使ってライスを食べる場合のベストだと思ってやっています。(ていうか、それが「普通」になっています)

 

「このマナーは間違いだ!」と言っている人は、どうしてそういうことを主張しているのだろうか?と考えると、これがその人にとってものすごく特別なことであると同時に、その人にとって「やりにくい」ことなんだろうなということです。

 

そもそも、「マナー」だと思っているので「やらないといけないこと」になっていて、それが出来ていないと「自分の評価が下がる」という感覚になっているので、「ストレス」になっているということなんですよね。だから、「それは間違いだ!」という主張をすることによって、「やらなくてもいいこと」にしたいわけなんです。(それでストレスが解消される…と思い込んでいるわけなんですが)

 

で、私はそもそも「マナー」という感覚よりは「これが食べやすい」と思ってやっていることなので「ストレス」なんか感じていませんし、例えそれが「間違ったマナー」であったとしてもどうでもいいことなんですよね。

 

 

ここまでで、「主体的思考」と「受動的思考」がわかったでしょうか?

 

マナーがどうのこうの言っている人は「受動的思考」で、食べやすいか否かで考える方が「主体的思考」です。

 

上の例は「フォークの背にライスを乗せて食べられるかどうか?」という結果で決まっているように見えるかもしれないですが、実はそのずーっと前に「主体的思考」か「受動的思考」かの分かれ目があります。

 

「主体的思考」の場合はマナーは基本的にはどうでもよくて、「フォークの背にライスを乗せて食べる」という行為自体に注目します。単に、それが自分にとって良いか悪いかを判断するんですね。なので、やってみてどうかということだけです。

 

反対に、「受動的思考」の場合は「マナー」ということがとても重要です。その行為が自分にとって良いか悪いかは関係なく、「マナー」を守れるか守れないかということに注目します。守れないと自分の価値が下がってしまうので守れるよう頑張らなくてはなりません。「やらないといけないこと」になってストレスが溜まります。

 

そうなると、「フォークの背にライスを乗せて食べる」という行為を続けていく場合、「主体的思考」の方が上達しやすくなり「受動的思考」の方は上達しにくくなります。

 

「主体的思考」の注目点は、それが自分にとって良いか悪いかを判断することなのでそのことだけに「集中」できますが、「受動的思考」の注目点は「マナーを守れるかどうか」なので「フォークの背にライスを乗せて食べる」という行為に「集中」できないので上達しにくくなります。

 

結果、「受動的思考」の方は「フォークの背にライスを乗せて食べる」という行為に苦手感が発生し、「マナー」が守れなくなるのでさらにストレスが溜まります。「主体的思考」の方は「フォークの背にライスを乗せて食べる」という行為が上達しているのでマナーがどうのこうの関係なく、それが普通になってストレスも発生しません。

 

わかります?

いや、わかりにくいか(笑)。

 

 

私が前から言っている「他人がどうかではなく、自分がどうかで決めましょう」ってこういうことなんですけど、そもそも「受動的思考」に傾いている人にはわかりにくいんですよね。無意識でそうなっちゃうんですから。

 

日本人の食事で言うと「お箸」ですよね?みなさんお箸をちゃんと使えますか?

私は小学生の頃に「お箸の持ち方綺麗だね」って先生に褒められました(笑)。

 

承認欲求が満たされた!

 

って感じはなかったんですよね。

もちろん褒められるのは嬉しいのですが、「普通」のことだったんです。

 

ナイフとフォークもそうなんですが、今改めて考えてみると私の場合は「お箸」を使って食べるという行為に対して「楽しさ」を感じていました。親家族からお箸の使い方を習った記憶がないんですよね。「こう持つんだよ」みたいなことを教えてもらった記憶はありますが、事細かく手取り足取りレクチャーされたことはありません。

 

「楽しい」からどうすれば上手くできるか?と試行錯誤できるんですね。

 

そこには、出来ないと怒られるとか出来たら褒められるとか、マナーがどうこうなんてことはありませんでした。単に楽しいから続けていたら上手くできるようになっていたというだけなんですね。

 

こんなちょっとした子供の頃の出来事で、「主体的思考」か「受動的思考」かに分かれる要因が発生してしまうってことです。