おっさんの外部記憶装置

40代おじさんのブログ

教え魔

10月なのにまだまだ暑いですね。

どうも、おっさんです。

 

前にネット記事で読んだ「教え魔」という話。世の中にはやたらと教えたがる人がいるんだけど、その行為は迷惑なだけで意味ないですよという内容でした。

 

何故かと言うと、そもそも「教えて欲しいと思ってない」というのと、教えて欲しいとしてもどこの馬の骨ともわからない人には教わりたくないからということでした。なので迷惑に感じるんだと。

 

そもそもが「教えて欲しいと思ってない」ので、誰かに教わる場合は「お金を払って教えてもらう」か「素性の知れている名のある人(大会入賞者など)に教えてもらう」のであれば”仕方なく”教わるということらしいです。

 

これを見てちょっと笑ってしまったんですが、そもそもが「教えて欲しいと思ってない」のに、結局誰かに教えてもらうんかいという矛盾(笑)。

 

しかも、名のある人とかお金を払った人に教えてもらうってことは、その教えてくれる人を「上」に見ているということですよね?であれば、素性の分からない一般人のことを「下」に見ているということです。

 

「上か下か」。

上の者には従うけれど下の者の言うことは聞かない。

 

このネット記事はドヤ顔でこれを「こういうことだ!」と書いているんですけど、書いている本人はこういうことに気付いていないということです。これを読んで「そうだそうだ!」となる人も同じです。

 

で、私は今までの経験でその「教え魔」なる人に遭遇したことがありません。

 

今はもうやってないんですが、昔ボウリングを週1~2回程度練習している時があって、一人で数ゲーム投げていたんですよ。毎回同じボウリング場で練習していたのですが、投げていると従業員の人とか隣のレーンの人とかに見られているなと感じていました。

 

シューズは自前だけどボールはハウスボール(備え付けのやつ)を使っていたので、あきらかに(競技志向の)初心者と見られていたと思います。ていうか、従業員の人に競技用の練習の仕方(2レーン使うとか)を勧められたりしたからそれが事実です。

 

私は競技としてやろうとしてたわけじゃなくて、単にボウリングが楽しくて練習してただけなんですが(笑)。

 

そんな中で誰も私に教えようとする人なんていませんでした。

別に良スコアがバンバン出てたわけでもないです。

やってたのは淡々とストライクが出やすい軌道のボールを投げてただけ。

 

言ってみれば、基本に忠実なことをしてただけです。

 

たぶん、その「教え魔」と言われる人って基本から外れていることをしている人や、あきらかに間違ったことをしている人に寄ってくるのでは?と考えます。

 

つまり、そもそも「教えてもらわないといけない人」に対して発生することなんじゃないの?ということです。本人は「教えて欲しいと思ってない」のかもしれないですが、実際には「教えてもらわないといけない人」だということになります。

 

これ、実はこのネット記事の内容から証明できるんですよね。

 

それは、「上の者には従うけれど下の者の言うことは聞かない」ということからわかります。これってどういうことかというと

 

そもそも、何が重要なのか理解できていない

 

ってことです。

何故なら、物事の正解が「上か下か」で決まってしまっているからです。

「上」が正解で「下」が間違いということになっています。

 

例えば、あるタレントがこういうことを言っていました。

 

「メモを見ながら喋っている人は信用できない」

 

メモを見ながら話しているので”自分の言葉で話していない”から信用できないということらしいです。

 

これを聞いてどう思いました?

私はおかしいと思います。

 

何故かと言うと、メモを見ていようが見ていまいがその人が「何を言っているのか?」が最重要だからです。メモがどうたらこうたら言っている人は「話の内容」がわからないと言っているのと同義です。だって、メモを見るか見ないかが重要なんでしょう?

 

こういう人はこれをどう認識しているのかというと、「メモを見ない人は”上”」で「メモを見る人は”下”」という認識です。なので、メモを見て話している人を問答無用で「下」と判断し、その話の内容は聞いていないあるいは聞く価値がないと勝手に判断している、というよりそもそもメモのあるなし(上下)でしか判断できない人なので、最重要である話の内容を判断することができない人だと言えます。

 

「教え魔」に対する反応でも同じです。既に「下」に見ているので、その人が「何を言っているのか?」は判断できていないんですよ。で、そもそも「何が重要なのか理解できていない」人なので、その「教え魔」なる人が寄って来ちゃうわけなんですねー。

 

仮に、私のボウリングに対してその「教え魔」なる人が寄ってきたとしましょうか?だとしても、私はその人を「教え魔」だと認識できません。何故なら、その人が「上か下か」関係なくその人の言っていること自体を知ろうとするからです。

 

もし、私の考え方と違うなら「私はそう思わない」と言うし、私の考え方に通じるものがあれば参考にします。でもこれは自分で何が重要かわかってないとできないことです。

 

教えてくる人を「教え魔」と言って”間違っている”としながら、その人に対して面と向かって何も言えないのなら「自分が何も知らない」と言っているのと同じことです。

 

ちなみに、教えてくれる人を「上」と認識していたとしても、そもそも「教えて欲しいと思ってない」という人は無意識で反発が起こります。あくまでも”仕方なしに”教わるという認識だからです。

 

こういう人は”自発性”がないあるいは私が言っている「主体的」ではない人なので、自分自身で何かを見つけることもできないし、誰かに教わって上達することも難しいので物事を進めるのが困難な人であると言えます。