どうも、おっさんです。
前から書きたいと思っていたんですが、タイミングというかなんというかココっていうものがなかったのでずーっと温めていたのですが、とある動画を見て書いてみようと思ったので書いてみます。(前回と同じ感じだな笑)
この動画
なんですが…
ちなみに、私この方の動画結構好きで見ています。今回の題材にピッタリだなと思っただけで、だからどうこうというわけではないのでその辺誤解のないように。
「自業自得」と「因果応報」ってどんな使い方しますか?
一般的には善い使い方はされていなくて、悪い意味として使われていますよね?
「自業自得」は悪い結果が出ることが分かり切っていることをやっている(いた)場合に使われますし、「因果応報」は悪いことをした結果その報いを受けた(受ける)場合のことを言われます。
私は、違う捉え方で解釈しています。
「自業自得」というのは、自分の行いによって自分がその結果を得るということ。
「因果応報」というのは、結果には原因がありそれに応じた報いを受けるということ。
両方共、基本的には善悪は関係ありません。関係ないというか、その両方というか。
「自業自得」は上記の通りに単純に、自分が行動すれば(しなくても)何らかの結果が現れるということです。これは「自業=自分の行い」「自得=自分が得る」ということでわかりますよね?
「因果応報」は「因果=原因と結果」なので、それに応じた報い(応報)を受けるということは「結果」が報いになり、それには「原因」があるということです。その人にとって善い結果であれば、その原因は善いことであったという証明で、その人にとって悪い結果であればその原因は悪いことであったという証明になります。
こう見てみると、一般的な使用法はなんだかおかしいのでは?
と、私は思っています。
で、上の動画なんですが、空気入れを貸さなかったら「この店は空気入れも貸さない店だ」とGoogle(マップ?)で低評価されて、「そんなこと言われる筋合いはない」的なことを言っています。
どう思います?
私は、こういう場合に「自業自得」「因果応報」がパッと出てきます。
空気入れを貸さなかった(自業)→ 低評価された(自得)
ということになり、それに対して「そんなこと言われる筋合いはない」という負の感情が起こっているということは、それは自分にとって「悪い結果」であったということになります。(因果応報)
であれば、「空気入れを貸さなかった」という行為は「悪い行為」ということの証明です。
おそらく、この考え方を見て違和感を感じる人は多いのではないでしょうか?動画内でも言われているんですが、「貸すか貸さないかは所有者の権限」というのはまぁ一般的に見て正しいと考えられるからです。でも、起こった結果がその人にとって悪いものであった場合は、その行為は悪い行為です。これは摂理なので変えようがないことなんですよね。
例えば、前にちょっと話題になったのですが、「手取り14万円」というやつ。
十数年勤続した会社で「手取り14万円しか貰えない日本終わってる」みたいなツイートがありました。これに対して色々な反応があったわけですが、私が思ったのは「じゃぁ辞めたらいいじゃん」ということです。
「手取り14万円しか貰えない」という不満があるということは、それが「悪い結果」ということになります。であれば、その人の行為は「悪い行為」ということです。つまり、その会社で働き続けるということはその人にとって「悪い行為」を続けているということですよってことです。
仮に、その同じ会社で「手取り14万も貰えている」という人がいたとすると、その人にとってはそれが「善い結果」になりますよね?であれば、その人の行為は「善い行為」ということになり、その会社で働き続けることはその人にとって「善い行為」を続けていることになります。
わかります?
見た目に同じ結果だとしても、それを善いか悪いか決めるのは自分自身ということです。
Google(マップ?)で「空気入れも貸さない店」と低評価されたということが悪い結果であったということは、「自分の店の価値が下がった」という認識になっているわけです。でも、「私の店は空気入れを貸さない」という考えであればその「空気入れを貸さない店」という評価は「事実」なわけですよね?
なんかおかしいと思いませんか?
「事実」を言われて「そんなこと言われる筋合いはない」って?
要は、その「事実」が「低評価」だったことに不満があるということなんですよ。
もし、高評価だったら不満になってないのかもしれないですね(笑)。
「空気入れを貸さない」ということを「高評価」してほしいということ。
私からしたら、そんなの人それぞれなんじゃ?と思います。
貸すも貸さないもその人の自由なら、それに対する評価も自由ってことです。
私が「貸さない」っていう考えなら、それに対する評価なんて「どうでもいい」ですね。
何故なら、「貸さない」と決めているのは私自身であって、そこに他人の評価は必要ないから。
これは、「貸さない」と決定したことに責任を持っているということです。
なので、「貸さない」のであればそれに対して他人がどう評価しようが、それは自分自身が決めたことという責任をもって処理する以外ないんですね。その場合、その評価した人に対して「そんなこと言うな」ということは責任を果たしていないということになります。それは「他人の責任」にしているということですから。
もう一つ、住んでいるマンションの自治で何やら面倒なことが起きているということですが、これも「自業自得」「因果応報」ですね。
管理組合の理事長をやっているそうなんですが、マンション管理会社の担当者からトラブルがあるので解決の為の許可?を下さいと言われ許可したんだけれど、その後何の連絡もなく解決したのかな?と思っていたら解決するどころか大変なことになっていて困っているとのこと。
解決したと思っていたから確認しなかった(自業)→ 大変なことになっていた(自得)
その結果「困ったことになった」わけですから、確認していなかったのが「原因」です。
管理会社の担当者に責任はないということではなくて、そこに管理組合の理事長として関わっている(しかも、そのトラブルの報告は受けていて解決の為の許可?も行っている)わけですから、責任の一端はあるわけです。
別に、こういう行動をとっているのが「悪い」と言っているわけではなくて、摂理で考えると「困ったこと」になった原因はこういうことですよということになっているだけです。
それが、「自業自得」「因果応報」なんですね。
これの意味がわかっていれば、自分自身の行動で結果が現れるということが理解できるわけですから。
空気入れを貸さなかったことを低評価した人に「空気入れを貸すことを当たり前だと思うな」的なことを言っていますが、だとすれば自治に関して「連絡してこなかったから解決していると思った」というのは矛盾した考えだと言えます。
あ、「自業自得」も「因果応報」も善い結果でも使う言葉なので、その例を(笑)。
ロードバイクで毎月1,000km以上走った(自業)→ 走力が上がった(自得)
走力が上がったのは「善い結果」なので、毎月1,000km以上走ったことは「善い原因」ということの証明になります。(それだけというわけではないですが)
ただし、人によっては…
ロードバイクで毎月1,000km以上走った(自業)→ 怪我をして走力が下がった(自得)
ということもあり得ますので、この場合は「悪い結果」になり毎月1,000km以上走ったことは「悪い原因」となってしまいます。(これもそれだけというわけではないですが)
つまり、自分自身の行いによって結果は現れますが、それが「善い結果」か「悪い結果」かはやってみないとわからないということです。
未来の事なんてわからないということですね。