おっさんの外部記憶装置

おじさんのブログ

嫉妬と優越感は同じ

今日はめちゃくちゃ暖かかったですね。

どうも、おっさんです。

 

ロードバイク界隈では…

 

「脚力なければ高級ロードバイクに乗ったらいけないのか?」

 

みたいな話は必ず出ます。

出ては消え、消えては出、もう定番の問答なんですね。

 

私の意見は何度も言ってますが

 

「趣味なんだから好きにすればいい」

 

です。

で、一般的にこの話はどう終わるのかというと

 

「妬みカッコワルイ!」

「悔しかったら金貯めて買え!」

 

っていうのが定番です。

まぁ、そうなりますよね。

 

でも、「脚力」の部分は見て見ぬふりなんですか?

私はそれが不思議なんですよね。

 

ロードバイクのイメージってみなさん一言でいうとどうですか?

今年の「漢字一文字」みたいなのありますが、ロードバイクで言うと

 

「速」

 

じゃないですか?

これに異論唱える人います?

(いないとは言えないですが爆)

 

ロードバイクをネットで調べると…

 

「舗装路を高速走行する為の自転車」

 

みたいな説明ばかりですが?…

このイメージ無しでロードバイク買っている人います?

(それを避けたい人はいるかもしれないですが笑)

 

嫉妬と優越感って出所は同じなんですよね。

他人と比べるから出る感情なんです。

これどちらも同じ「承認欲求」です。

 

嫉妬で言ってる方も、それに対して優越感で言い返してる方も

 

同じ

 

なんですよ。

もちろん、先に言った方が「悪い」っていうのもわかります。

ただ、そもそも「優越感」を持ってないなら、相手の嫉妬に対して反応なんかしないんですよ。

反応するっていうことは、自分の優越感(承認欲求)に対する「承認」が得られなかったから腹が立ってるんですよね。(別の理由もありますが)

 

なので、そういう嫉妬のことばに対する反応としては、「悔しかったら金貯めて買え」とかいう優越感からくる返しは同レベルにしかならないということです。

 

「趣味なんだから人の勝手」

 

これが無敵のことばです(笑)。

人の趣味に誰も文句言えません。

しかも、これが「本当に」わかっていれば反応なんてしません。

 

では、どうして反応してしまうのか?

それは…

 

「脚力が無い」

 

という部分がコンプレックスだからです。

 

あ、誤解のないように言うと、「脚力が無い」のは別に悪いことではないですし、私が「脚力が無い」人を馬鹿にしているとか馬鹿にされる理由があるとか言っているわけではありません。「脚力が無い」ということにコンプレックスを持っている人がいるという事実を言っているだけです。

 

何故なら、そういう部分にコンプレックスが無いなら

 

「脚力がなければ高級ローバイクに乗ってはいけないのか?」

 

なんていう疑問は出てこないからです。

「他者比較して脚力が無い=自分」という

 

「他人と比べている」

 

部分があって、それに対する他人の評価からのマイナスイメージがある時点で

 

コンプレックスがある

 

ということなんですよ。

コンプレックスが無い人は

 

脚力とかwww

 

と気にしません。

だって、脚力のことなんか別世界のことですから。

ロードバイクに脚力とか関係ないと思いますから。

ですよね?

 

気にしている時点で

 

ロードバイクには脚力が関係する」

 

と自分自身が認識しているわけです。

それを、嫉妬心から言っている人からとはいえ「指摘」されたことに

 

腹が立っている

 

わけなんです。

事実を指摘されると腹が立つ。

 

こういうやり取りは「マウンティング」と言われます。

相手の「弱点」を指摘し合うのがマウントの取り合い。

承認欲求です。

 

承認欲求が悪いわけではなく、「嫉妬」という相手の承認欲求に対して、「優越感」という自分の承認欲求でお返ししても何の意味もないということです。

 

こういう場合にどうしたらいいかというと

 

その事実を受け止める

 

ということです。

だって、事実なんですから。

それを受け止めて

 

自分はどうしたいのか

 

を考えたらいいんですよ。

言ってきた相手に対して「悔しかったら金貯めて買え!」って思うんでしょ?

だったら、自分に対して

 

「悔しかったら努力して脚力上げろ!」

 

って言ってるのと同じですよ。

どっちも根源は同じなんですから。

 

これが分かったら

「脚力がなければ~」とか言わないですよ。

 

言ってくる相手が悪いっていうのもわかりますが、相手の言動を縛ることなんてできないんですから、一々反応してもキリがないし、反応するってことは自分も同じ感情で反応してるってことですよ。

 

趣味なんだから好きにすればいいじゃないですか。

それで何の問題があるんですか?

っていう簡単なお話です。

人は「快」のスイッチを入れる作業をしているだけ

どうも、おっさんです。

 

私は、ロードバイクに乗るということが「好き」なので乗っています。

ロードバイク乗りの人ならその点は同じでしょう。

 

でも、「ロードバイクに乗る事が好き」と言っても人それぞれどの部分が好きかは違います。

 

私の場合は「ロードバイクに乗ってある程度の負荷で自分の実力アップが見込める領域での走りが好き」ということになります。負荷が高すぎるのは「しんど過ぎる」だけなので好きではないですし、負荷が低すぎても「退屈」なだけなので好きではないということです。「しんど過ぎる」も「退屈」も程度は違いますが、「快」か「不快」かということになると「不快」という部類に入ります。

 

人は「快」「不快」の二つのスイッチで行動しています。

社会では「快」のスイッチが入ることもあるし「不快」のスイッチが入ることもあります。

 

「快」のスイッチが入ると「楽しい」や「嬉しい」等ポジティブな感情に、「不快」のスイッチが入るとストレスによってネガティブな感情になってしまいます。

 

社会では他人と関わっているので「快」のスイッチだけ入れるということは不可能です。

自分の行動によって、他人のリアクションがあるからですね。

 

でも、他人からの「快」のリアクションが欲しくてアピールしても、その他人は「快」のスイッチを入れてくれるとは限りません。場合によっては「不快」のスイッチを入れてくる場合もあります。

 

つまり、「快」「不快」のスイッチの操作を他人には任せられないということ。

 

「快」のスイッチを入れたければ、自分で入れるということが大切なんですね。

Don't think. Feel.

今日は走ろうと思っていたのですが、気が乗らなかったので止めました。

まぁ、そんな日もありますよね…。

 

どうも、おっさんです。

 

インナーゲーム理論というものがあります。

テニスコーチのティモシー・ガルウェイ氏が提唱した考え方です。

 

人の中には二人の自分が存在して、その自分同士が戦っているということ。

 

※インナーゲームをきちんと理解したい方は、各自で勉強してください。

ここに書くのは私の解釈で簡単に説明できるようにしています。

 

前提として理解しておくと良いのは

 

身体を動かすのは脳からの直接的な指令であり

必ずしも意識が身体を動かしているのではない

 

ということ。

これは数々の実験等で証明されていることです。

 

初めに脳が反応して身体を動かして

それを「意識」が認識するということです。

(意識も脳の中ですが?ここでの脳は機械的に動作する部分という意味)

 

例えば、人が歩くという動作をする場合、「意識」で「歩く」と考えてから身体が動くわけではなくて、脳が歩けと身体に指令を出して身体が動いて歩き、それを「意識」が「歩いてる」と認識するということです。(意識が歩きたくないと考えれば、歩かないという選択もできます)

 

「脳」からの歩く指令 > 「身体」が反応して歩く > 「意識」がそれを確認する

 

ということです。

(厳密に言うと、歩くのと確認するのはほぼ同時だったりします)

 

インナーゲームでは「自分1」と「自分2」となっていて、上記の前提を融合させると「意識=自分1」で「脳=自分2」と考えます。

 

歩くというような慣れている動作の場合はほとんど問題がないのですが、スポーツ等でまだ慣れていない動作を習得しようとしている段階や、その動作の効率を重視しよう(上げて行こう)としている段階では「自分1」が「自分2」を邪魔しようとしてきます。(脳からの指令が身体に届く前に意識がそれを邪魔します)

 

「自分2」は邪魔をされなければ、本来持っている能力を発揮することができますが、「自分1」が邪魔をしてくるのでその本来の能力を発揮することができなくなります。なので、「自分2」が「自分1」に勝つ(邪魔をさせない)ということが重要になります。

 

これがインナーゲームです。

歩く場合に「脳=自分2」が「意識=自分1」に負けている場合はどうなるのかというと

 

脳(自分2)からの歩く指令が直接身体に届く前に、意識(自分1)が身体に対して「歩くってこうだっけ?あれ?こう?いやこうでしょ?」とあやふやなことを言って邪魔してきます。身体はその邪魔でどう反応したらいいかわからなくなり、きちんと歩けなくなるというわけです。

 

自転車のペダリングに置き換えると、ネット等で見た理想のペダリング理論を「頭=意識」(自分1)で考えながら身体を動かそうとしても、身体は本来の能力を発揮しない(自分1が自分2を邪魔している)ので、その理想のペダリング理論通りにはならないということですね。つまり、頭(意識)で理論を考えながら自転車に乗るのではなくて、「脳」(自分2)のやりたいようにさせてあげるのが良いということです。

 

ただし、「脳」(自分2)は完全に開放すると暴走します。「意識」(自分1)はそれを監視する役目もあるので、「脳」(自分2)のやりたいようにやらせるというよりは、「意識」(自分1)になるべく邪魔をさせないようにすると言った方がいいかもしれません。

 

「脳」(自分2)は放っておくと暴走するということを自転車を走らせている状態で言うと、心肺だったり筋肉だったりの身体の疲労感を無視してしまうというようなことです(あるいはもっと酷いと公道走行中の交通法規無視とか)。それを制御する為に「意識」(自分1)にはその分のほんのちょっとだけ働いてもらう必要があります。

 

このインナーゲームに勝つということが、前回書いた記事の

 

nicolarossi.hatenablog.com

「フロー(体験)理論」へ入る条件(もしくはそのもの)ですね。

 

「考えるな、感じろ」ということです。

 

※当たり前ですけど、何にも考えなくていいってことじゃないですよ?(笑)自分で考えながら走って鍛錬を積めば、そのうち考えなくても感じるままに走れるようになるよってことです。

足るを知る者は富む

昨日は予定通りに走ってきたのですが、予報通りに暑かった…(^^;

春秋用の長袖インナーに、半袖ジャージで走りましたよ。

先月末から、中1~2日間隔で走れているので調子もだんだん上がってきました。

 

どうも、おっさんです。

 

今回も前回・前々回のつづきのような内容かも。

前回・前々回の記事はこちら

nicolarossi.hatenablog.com

nicolarossi.hatenablog.com

 

「足るを知る者は富む(知足者富)」ということばを知っていますか?

思想家である老子のことばです。

 

ことわざとしてや道徳等で教わったり、漢文で習ったり、あるいは直接目上の人に言われたり(笑)するかもしれません。

 

※「なんだコイツ、いきなり説教始めやがった。自転車の話じゃねーのかよ!」と思ったそこのアナタ。安心してください、ちゃんと自転車の話に繋げますから(笑)。

 

「足るを知る(知足)」は仏教由来の考え方で、「身分相応の満足を知る」という意味で使われています。つまり、身分に合わない満足に欲を出さずに、身の丈に合ったところで折り合いをつけるということですね。

 

なので、「足るを知る者は富む」ということばの意味は…

 

「身分相応の現状に満足できる者は豊かになる」

 

ということです。

この場合、豊かになるのは「心(精神)」ということですね。

 

現代では「身分相応な金銭感覚を持っていれば、結果的にお金が貯まって豊かになる」という感じで使われる場合もあります。(笑)

 

私自身はこのことばに対して「まぁ、そうだろうな」ぐらいにしか思っていなかったのですが、一方で「現状に満足してたら”成長”しないよね?」とも感じていて、自分や他人に対しての戒めとしてのことばとしか思っていませんでした。

 

ただ、これはある一文の中のことばなので、このことばの前後にも繋がったことばがあるんですね。

 

人を知る者は智、自ら知る者は明(めい)なり。

人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。

足るを知る者は富み、強(つと)めて行う者は志有り。

その所を失わざる者は久し。

死して而(しか)も亡びざる者は寿(いのちなが)し。

 

これが全文で、この中の

 

足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り。

 

ということば。

意味は「満足することを知っている者は豊かになり、努力を続ける者はそれがわかっている(もしくは、それがわかる余地がある)」というような訳し方をされているようです。つまり、努力を続ける者は「足るを知る者は富む」ということがわかるということなので、「現状に満足すること」っていう解釈の仕方は違うんじゃないの?と思いました。だって、努力を続けているんだから「現状に満足しよう」って思わないでしょ?(笑)。

 

ここで、一旦別の話に飛びます(笑)。

 

「フロー(体験)理論」って知ってますか?

私は最近知りました(笑)。

心理学者のチクセントミハイ博士が提唱した理論です。

 

内容は、人が何かに取り組んでいる時に、その当事者が自己の没入感覚を伴う楽しい体験をすることで、その状態にある時は高レベルの集中力を持ち、楽しさや満足感、状況のコントロール感等を得られるというような理論です。(詳しくは各自調べてください笑)

 

例えられているのが、スポーツ選手等がよく言う「ゾーンに入った」状態ということ。

 

これを知った時に私は「あっ!」と思いました。

そう、私がロードバイクタイムアタックをしている時の状態に酷似しているのです。

 

特に、「その取り組みが当事者の技量(レベル)に対して難しくも易しくもない丁度良い難易度で、絶妙のバランスの上にいる時」とか、「自分が行っている行動に明確なフィードバックがある」「その行動によって取り組みが上手くいっているというコントロール感が得られる」という部分。

 

そして、その取り組みが「楽しい」「満足感がある」ということですね。

 

私は、こういう感覚をタイムアタックでタイム更新できるかどうかという状況の時に感じることができます。

 

この状態の一番の肝は

 

「自分の技量(レベル)に対して、その取り組み(挑戦)が丁度良い難易度か?」

 

ということです。

易しすぎると「退屈」に感じますし、難しすぎると「しんどすぎる」と感じます。

 

例えば、私がいつものコースでタイム更新する状態にある時のパワーは200wを継続的に出せている時です、それに対して150wしか出していないのであれば「退屈」に感じますし、250w出していれば「しんどすぎる」と感じて途中で失速します。自分のコントロール下から外れてしまうんですね。

 

そうすると、「楽しさ」や「満足感」は得られないわけです。

 

ということを知ったうえで老子

 

足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り。

 

を、再び考えてみましょう。

 

努力を続ける者は「足るを知る者は富む」ということをわかっているということでしたよね?

つまり、「足るを知る」ということは

 

現在の自分の技量を知り、

その技量で満足を感じる「伸び代」を知る

 

ということです。

 

自分の技量がわからなければ、それに対する「満足感」を得られる範囲がわからない。

 

自分の技量に対して過大な「満足感」を求めても到達できないですし、自分の技量に対して過小な「満足感」を求めてもそれでは退屈に感じて「満足感」を得られない。自分の「伸び代」に合った達成目標を理解しなければ「満足感」は得られないということです。

 

前に紹介した「120㎞をある程度楽に走破したいけれど、今は60km程度しか楽しく走れない」とか言っている人なんかは、自分の技量(楽しいのは60kmまで)に対して過大な「満足感」(120km走破)を求めている例です。こういうミスマッチに気付かないで続けると「しんどい」からイヤになって辞めてしまう原因にもなりえます。

 

nicolarossi.hatenablog.com

 

普段の生活でも使えることばにすると

 

自分が満ち足りる(足る)最小限の範囲を知ることができれば、その範囲に対しての成長も期待でき、達成できれば心も豊か(平穏)になる。そして努力を続けている者はそれを(無意識のうちに)実践している。

 

ということですね。

 

「足るを知る」に対して一般的に言われている「身の程をわきまえろ」とか「今の自分に満足しろ」とかいう解釈とは真逆なのではないかと思いました。

 

上記のことを考えて行くと、老子は「フロー体験」の経験者ではないかと思えますね。

「フロー(体験)理論」自体は太古から存在していると考えられているようですし。

「足るを知る」は仏教由来なので、仏教関係者は当たり前に経験しているのかも。

 

と思って調べると…

 

www.youtube.com

さすがですね。

 

もう一つ、フロー体験の只中にある方の動画

 

www.youtube.com

ヒルクライムでは著名なある女性ライダーが白石峠をアタックしている動画です。

パワー値が表示されているのでわかりやすいですが、大体210~230w程度を保って白石峠を登っています。

 

パワー値が安定しているということと、ベストタイムを出した時の動画ということで、これが「難しくも易しくもない丁度良い難易度で、コントロール下に置かれた状態」であるということがわかります。(もし、コントロール下に置かれていない状態だとパワー値は不安定になる)

 

傍から見ると「息も苦しそうだし、しんどそう」と思うかもしれないですが、本人は集中して自身のコントロール感とそれに対するフィードバックを感じながら「楽しく」走っていると思います。それがフロー状態です。

 

この動画のコメント欄に「自転車で速く走って何になるの?」みたいなコメントがあるんですが、本人は意味があるとかないとか関係なくて、単純に「楽しい」から走っているだけです。一般人は「こんなしんどいことしてバカじゃないの?」とか、「しんどいことが好きなの?」とか思うかもしれないですが、単純に「楽しい」だけなんです。

 

老子はそういう状態を「努力を続ける者ならわかるよ」って言っているんですね。

 

それが

 

足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り。

 

ということばなんです。

ロードバイクのヒエラルキー

明日は一応走る予定なんですが、暑くなりそうですね…。

そして、またその後は寒くなるという…。

 

どうも、おっさんです。

 

今回も、前回の記事のつづきのような内容になります。

 

前回の記事はこちら

nicolarossi.hatenablog.com

ロードバイクヒエラルキー(階層)」というと、思い浮かべるのは何ですか?

ネット等の情報を見ていると…

 

フレームのグレード?

コンポのグレード?

ホイールのグレード?

(つまり、あらゆるパーツのグレード)

 

ってことを多くの人が考えるのではないかと思います。

実際に、ネット上ではこういう話題が多くなっています。

 

確かに、グレードが高い方が「良い」というのはそうでしょう。

(個人の好みも絡みますが…)

 

しかし、私が前から言っているように、レースにも出ない私のような素人がその辺を走っている程度なら、その「良い」かどうかの違いなんて大した違いではないと思っています。

 

それはどうしてかというと…

 

ロードバイクヒエラルキーは機材のグレードだけではない

 

ということなんですね。

そう、エンジンである「脚力」が絡んでくるのです。

ただ、こういう話題になると必ずこういうことを言われます。

 

「脚力がなければ高級機材に乗ってはいけないの?」

 

と…。

私は前から言っているように「趣味なんだから好きな機材に乗ればいい」と考えます。

 

前回の記事で、自動車の市場は「必要な人が必要な分だけの選択をしている」という合理的な判断をする状況になってきているので「成熟」してきている(承認欲求が弱くなってきた)と書きました。対して、ロードバイクを含むスポーツ自転車の市場では、「必要か必要ではないか」という合理的な判断よりも、趣味性が重視される文化なので「承認欲求」の塊(強い)だと書きました。

 

一応、補足しておくと「承認欲求」は誰にでもある欲求なので、別にその欲求があることが「悪い」ということではありません。私の解釈では、どこかの「集団」に所属すると多かれ少なかれ「承認欲求」は発生します。それは「承認欲求」が「他人に一目置かれたい」という欲求なので集団の中の人としては当然の成り行きだからです。

 

ではどうして、自動車の市場では「承認欲求」が弱く、スポーツ自転車の市場では「承認欲求」が強くなってしまうのでしょう?

 

それは、

 

ヒエラルキーの強さ

趣味性の強さ

 

に人々の「承認欲求」が刺激されるからです。

 

自動車の市場は、私が若かった頃までは完全な「ヒエラルキー」が存在していましたし、それはそれぞれの自動車会社のマーケティング的な思惑もあるのは当たり前でしたが、消費者側の思考としても「上のグレードのクルマに乗りたい」という状況が生まれていたからです。それは、現在のスポーツ自転車の市場と同じように、自動車を買うという行為が趣味性もある程度は重視される文化(時代)だったからです。

 

ただ、そのヒエラルキーによる刺激も、人々の価値観の変化によって維持できなくなり弱くなってしまったわけです。そうなると、そのカテゴリーでの「趣味性」は薄くなり、「合理性」(実用性)での選択が多くなってくるということですね。(自動車は地方では生活必需品なのでそうなるのは当たり前といえます)

 

一方、スポーツ自転車はどうかというと、自動車と違って「実用性」は皆無に近いので、どうしたって「趣味性」が重視される文化です。自転車を「実用性」で選ぶなら、シティサイクル(ママチャリ)が一番ですから(笑)。

 

そこに「承認欲求」をさらに刺激するヒエラルキーを添加してあげると、どうしても「上のグレードの自転車に乗りたい」と思ってしまうのは仕方のないことでしょう。

 

で、その「ヒエラルキーを添加」しているのって誰でしょうか?

それは、スポーツ自転車関連のメディアであり、ネット上で発言している自転車乗り等です。

 

「承認欲求」というのは「他人に一目置かれたい」という欲求なので、他人が自分の事をどう思っているのかということが気になります。なので、各種メディアやネットの情報等を参考にして世間一般ではどういう考えが一般的なのかということを調べるわけです。

 

ヒエラルキーを添加」している情報というのは、「ロングライドなら105以上が必要」(そんなことありません)とか、「10万円程度のエントリーモデルは遅い」(遅いのは脚力がないからです)とか、「ハイエンドロードは素人が乗ってもめっちゃ速い」(マジで?)とかの情報です。

 

今の、ネット上の情報を調べて行くと、どうしてもそういうヒエラルキーが添加された情報が多く見えてしまうので、どうしたってそれを参考にすると「上のグレードがいいんだ」と考えてしまうんですね。

 

前回の記事で「高級品を買うことが承認欲求を満たすかどうかは、その人の考え方次第」ということを書きましたが、上記のように考えて行くと…

 

それって本当に自分で考えた判断なの?

 

と、疑心暗鬼に陥ってしまいそうです(笑)。

 

「承認欲求」って誰にでもある欲求なんですが、上手く付き合わないとそれが本当に自分にとって良い判断なのかわからなくなってしまいますね。

スポーツ自転車ブームの理由

急に暖かくなりましたね。

ていうか、暑いぐらいです(笑)。

 

どうも、おっさんです。

 

今日は、日本でのロードバイククロスバイク等のスポーツ自転車の人気の高まりは何故起こったのか?というある記事を読んで私が思ったことを書いてみます。

 

その記事はこちらの

www.jma2-jp.org

日本マーケティング協会のサイトに小林正樹氏が寄稿した記事です。

小林正樹氏は現在折り畳み自転車の会社を起こしている方のようです。

 

記事を読んでもらえばわかりますが、記事内容を要約すると

 

マズローの欲求5段階説」のうちの最上階である「自己実現欲求」の段階に入った人がスポーツ自転車を買い求めているのではないか?

 

ということです。

 

ここでは「マズローの欲求5段階説」を詳しくは説明しませんが

 

第5段階 自己実現

第4段階 承認

第3段階 社会的

第2段階 安全

第1段階 生理的

 

という、5種類の「欲求」を段階的にまとめた考え方です。

簡単に言うと、人の欲求は下の段階の「欲求」から順に満たされていくということです。

(個人的には所々「どうかな?」と思う部分もあります)

 

で、記事内では日本では自動車が売れなくなってきているということと、スポーツ自転車が売れているということを対比させて「それは承認欲求の段階から自己実現欲求の段階へ入ったから」ということでした。

 

承認欲求というのは、「社会(他人)に認められ(尊敬され)たい」という欲求です。

 

日本は世界の中では比較的安定した社会情勢の国なので、社会的欲求である「社会の一員であるかないか?」の第3段階までは欲求が進んでいると思います(もちろん例外はあると思います)。その上の承認欲求というのは、その社会の中で「一目置かれている」状態になりたいという欲求ですね。第3段階が安定して満たされているのであれば誰でも?持つ欲求ではないでしょうか。

 

記事内では承認欲求を満たす方法として「ブランド品」を買うという例を上げています。売れなくなっている自動車を対比させているので、「ベンツ」を買えるということは社会的に「お金持ち」という認識が一般的なので、社会に対して「私はお金持ちなんだ」ということを示すことができ、承認欲求を満たすことができるということです。

 

対して、スポーツ自転車はそういう承認欲求を満たすには適してなく、例え高級ロードバイクであっても社会一般では高級かどうかは認知されていないので、社会に対して「私はお金持ちなんだ」ということを示せない為、自動車ではなく自転車を買う行為は…

 

高級品を見せびらかして経済力をマウンティングし合うことに飽きた(虚しくなった)人が、新たな価値観を見出して行うこと。それが「自己実現」の段階に入ったということ。

 

という結論になっています。

どうでしょうか?

私は「そうかなぁ?」と思います。

 

まず、私が思ったのが、お金持ちの人って確かに高級車に乗ってますけど、それって「見せびらかしてる」んですかね?単に、高級車を買える収入があるのでその予算内で好きな自動車を買ってるだけなんじゃないでしょうか?

 

それと、この記事内容だと自動車が売れなくなっているのは、そういう高級車でのマウント合戦に飽きたからみたいな見え方をしてしまうんですが(もちろんこの記事の意図ではないでしょうが…)、高級車って近年は逆に販売が伸びていると思うんですが…。トヨタ自動車のレクサスなんか、日本導入の際は「失敗する」って言われてたりしましたが、今、絶好調ですよね。

 

具体的な統計があるわけではないので私の持論ですが、自動車の販売台数が全体的に落ちてきているのは…

 

必要な人しか買わなくなってきているから

 

ということだと考えます。

日本でのモータリゼーションの頃は、自動車を所有すること自体がステータスで、そこで承認欲求を満たしていたということになります。少し進むと、軽自動車よりは小型車、小型車よりは中型車、中型車よりは高級車と、承認欲求を満たすためのヒエラルキーによって、その連鎖が自動車の販売台数を押し上げていたということですね。

 

「若者の収入が少ないからだ!」とかいう人がいますが、私の若い頃も収入がそれほど多くない中でローン組んだりして自動車を買ってましたよ?現在も、自動車を所有したいという欲求の人はそれなりにいて、そういう人は普通にローン組んで買っているのでは?つまり、自動車自体への関心が薄い若者が増えているっていうだけなんですよね。実際、生活に必要じゃないのにローン組んでまで買うの?っていう。

 

そういう風に価値観が変わってきたので、現代は「必要か必要ではないか」という考えに基づいて、自動車を「買うか買わないか」を選ぶ層が増えただけだと言えると思います。自動車を所有すること自体が承認欲求を満たす対象ではなくなったからとも言えますよね。

 

公共交通の発達している都会では必須ではないですが、地方では自動車は生活に必要な道具なので高校卒業と同時に自動車免許を取得し、その後、必要な時点で自動車を所有することになります。

 

地方では「軽自動車」の割合が比較的高くなっていますが、それも「生活に必要だから」という理由を考えると、「軽自動車」を選ぶということも合理的な判断だということになります。私が若い頃は「軽自動車=貧乏くさい」みたいな価値観だったので、合理的な判断よりもそういう承認欲求に寄った判断で小型車や中型車を所有することを選んでいました。

 

これらの事を考えて行くと、現在の自動車の市場というのは比較的「成熟」してきていると言えると思います。「必要な人が必要な分だけの選択をしている」のですから、そこに承認欲求とか余計な部分が関係なくなっているんですよね。

 

対して、スポーツ自転車の市場を見てみると、私は「承認欲求」の塊だと思います。

 

例えば、合理的な判断で言うなら「ポタリングするのにハイエンドロードバイクが必要?」と考えても、趣味なんだから「ドグマF10にデュラエースにボーラウルトラでポタリングしてもいいじゃん」となります。合理性よりも趣味性を重視する価値観が大きいのです。

 

いくら、世間一般でのロードバイクの高級品認知がないからといっても、一歩スポーツ自転車文化の中に入れば、そこにヒエラルキーが発生して承認欲求を満たせる高級機材への関心が高まってしまうんですね。

 

記事内の言及とは真逆に思うわけです。

 

私は上で

 

収入に応じた所有選択をするのが「見せびらかし」になるの?

 

ということを書きました。

これの答えを私の解釈で言うと…

 

見せびらかしたいと思うかどうか

 

という、本人の考え方次第だと考えます。

もっと具体的に言うと

 

他人が自分をどう思うかということを考えて選んだのか

 

ということ。

自分の考えに「他人」が介在するかしないかの違いです。

 

例えば、高級自動車を買える収入がある人が、買うクルマを選ぶのに「会社の同僚が選んだクルマより高いクルマを買おう」という考えの人は承認欲求でクルマを選んでいるということになります。逆に、他人は関係なく自分の好きなクルマを選ぶ人は承認欲求で選んだとは言えないかもしれません。

 

承認欲求というのは「他人」が介在する欲求です。

「他人に一目置かれたい」のですから当たり前ですね。

なので「他人にどう思われるか?」という考えが先行するのが承認欲求なのです。

 

上記の事から、記事内で「高級品を買うという行為は承認欲求を満たす為」という考え方は、半分正解で半分間違いだと私は思います。それはその行為を行う人の考え方次第なんですから。そして、その考え方は本人が他言しない限りわかりませんし、本人自身もわからないかもしれません(無意識の行動だってありえますから)。

 

他に、ロードバイクに乗り始めた人にありがちなのが…

 

早くロードバイク乗りとして認められたい

 

という思考です。

私がよく言っている「ロングライドしないといけない症候群」とか。

ロングライドできないと一人前と認めてもらえないみたいな。

 

これは、承認欲求の下の社会的欲求です。

ロードバイク社会の一員として認めてもらいたいという欲求ですね。

 

上記のような色々なことを考えて行くと、とてもスポーツ自転車を積極的に選んでいる人達が「自己実現欲求」の段階に入っているとは思えないんですよね。もちろん、新たな価値観に魅力を感じている人達であることは感じますが、それイコール「自己実現欲求」を満たしたい人ということでもないと私は思います。結局は「承認欲求」を満たすための新たな価値観への憧れみたいなものだと感じます。

 

それが、今のスポーツ自転車ブームの理由なんじゃないかと思うのです。

1月終わり

どうも、おっさんです。

超久しぶりの更新です(笑)。

 

そして、今年も早一月終わり。

そう、おっさんの時間感覚は速いのです(苦笑)。

 

今月の総走行距離はなんと210kmでした。

ロードバイクに乗り始めての最短月間距離。

ほぼ、週一でしか走れてません…。

 

「距離より内容(強度)」

 

とか言ってますが、さすがにこんだけ走れてないと強度も保てません。

週一では成長できないということを立証できました(笑)。

 

具体的に言うと、心肺能力が下がります。

心肺に粘りがなくなってくるので、すぐに苦しくなります。

ま、当たり前のことですよね。

 

来月からは鍛え直しですね。