おっさんの外部記憶装置

40代おじさんのブログ

ツバメはただ生きているだけで、私はそれをただ見ているだけ。

どうも、おっさんです。

 

前回の記事

nicolarossi.hatenablog.com

の続き。

 

前回の記事では、「生きる」ということは「表現する」ということですよということを書きました。

 

「生きる」 = 「表現」

「表現」 = 「生きる」

 

どっちでも成立します。

どちらも同じということですね。

 

なので、「表現」というのは、私たちが一般的に認識している芸術性等の表現だけに留まらず、単純に生きて活動しているという状態が「表現」ということです。

 

私がどうしてこんな記事を書いているのかというと、この

www.youtube.com

動画を見たからなのですが、今回はこの動画について私が思ったことを書きます。

 

この動画、要約すると…

 

みんなもっと「寛容」になろうよ

 

ってことですね。

それ自体はメッセージとしてアリだよねとは思うんですが…。

 

「生きる」とは「表現」することだと私は考えました。

その「表現」とは「内から外へ」のエネルギーであるとも考えます。

 

なので、生きているということは人それぞれ内から外へのエネルギーを発しているということです。

 

だとすれば、「人それぞれのエネルギー」なので、どうしてもそれが「ぶつかり合う」ということは避けられないんですよね。人それぞれの考えがあって、それがエネルギーとして放出されているわけなので、そのベクトルの微妙な違いから「ぶつかり合う」のも自然な事だと思います。

 

私の考え方なのですが、この「寛容」という言葉がイマイチしっくりきません。

 

寛容とは「よく受け入れる」「受け入れて人を許す」等という意味なんですが、ではこの「寛容になろうよ」と言っている人は、はたして「寛容」と言えるのでしょうか?

 

私は、本当に「寛容」な人というのは、周りで起きたことに対してただニコニコして受け入れているだけの人だと思います。この動画のように、他人に対して「どうしてもっと寛容になれないの?」等とは言わないと思うんですよね。

 

それは何故かというと、「寛容」であるということはその「不寛容」な状態をも受け入れて初めて「寛容」が完成されるからです。この動画を出している時点で、既にそうなっていないということが証明されていますよね?

 

つまり、この動画で求められているような社会全体としての「寛容」というのは元から成り立たないと言えるわけです。「寛容」というのは、人それぞれで「寛容」であるかないかというごく個人的な状態にしかならないのです。(寛容のパラドックスという考え方)

 

人が生きて行動しているという「本質」で考えると、前回の記事から言っている通りに「人それぞれのエネルギー」によってそれぞれが「表現」しているだけなので、そのそれぞれの表現が「ぶつかり合う」のは本質的に避けることのできない状態と言えます。

 

なので、その「ぶつかり合う」状態を

 

どうして避けられないの?(寛容であるべき)

 

と言ってみても、それは「生きる」という本質から見れば無理な話ということがわかります。

ここで、これを否定するありがちな考え方を出してみます。

 

「人は考えることのできる知的な生物だからできるんだ」

 

これです。

私は全く逆だと思いますね。

(人間を高く見過ぎです)

 

人間は考えることができるからこそ、それを避けられないし避けようとしないんですよ。頭が良いから他人をどうにか思い通りにしようと考えてしまう。この状態で危惧されるのは「寛容であるべき」という考えの人ほど窮地に追い込まれやすくなるということです。

 

「寛容であるべき」と言っている人にはある特徴があります。

 

「弱者側」あるいは「弱者の味方側」

 

の人ということです。

弱者を蔑ろにしてもいいっていう話じゃないですよ?

(ていうか、私は弱者もそれ以外も生きているエネルギーとしては同じ立場だと思っている)

この動画の内容で言えば、「炎上の被災者側」ということですね。

 

そもそも、どうして「炎上」するんですかね?

これ超簡単ですよ。

 

「炎上するような動画を上げたから」

 

たったこれだけです。

自分で火をつけただけ。

で、「どうして炎上するんだ?」と言っている。

 

え?その動画上げなきゃ済んだ話では?

その動画上げなければ、炎上もしないし謝罪もしなくて済んだのでは?

 

他人に寛容であるかないか要求する前に、自分達の行動を見直した方が良いと私は思いますけどね。

 

あと、Twitter等でクラリスとかソラの自転車乗ってるとダサいとか言われるっていうのもありますが、そういうのって私が前に書いたように「ファッション」で機材を選んでいる人なので、言っていることを真に受ける必要はないとしか言えないですね。

 

それに、そういうのって現実世界でもあるでしょう?

「その靴ダサくね?」「その髪型ダサくね?」

思春期の年頃だとだいたいこんなこと言われたりします。

大人が言ってたらさすがにアレですけどね(笑)。

 

中学生がTwitter上でそういう応酬してたら微笑ましく見てあげるだけです(笑)。

これも、言われたくなかったら無暗にTwitter上に晒すなとしか言えません。

(承認欲求を満たしたいだけの行動なんだから)

 

ツバメの話してますが、ツバメは別に私に対して「表現」を見てほしいと思っているわけではなくて、単に「ツバメ」として生きているだけで、私はそれをたまたま見ているだけなんですよね。

 

ツバメの巣の下って糞で汚れるので毎日掃除します。

人によってはそれが邪魔くさいと思う人もいるのでは?

車庫のクルマの上に巣作りされたらクルマが汚れます。

そうなったらそこに巣作りされないように対策するかも?

すると、ツバメはそこの家に巣作り諦めるかも?

 

人と人も同じことですよ。

自分が何かしたら、それに反応する人がいる。

反応した人に対してまた反応する。

 

生きているというエネルギーは「ぶつかり合う」ものなんですね。