おっさんの外部記憶装置

40代おじさんのブログ

久々のタイム更新(仮)

どうも、おっさんです。

 

春ですねぇ。

この時期は本当に走りやすい。

 

ということで、久々のタイム更新来ました。

 

とは言っても、実はいつものコースの一部が「工事中」なので、3kmちょっと別のルートを走ったうえでのタイム更新になっています。でも、この迂回ルートは初めて走ったのですが、こっちのルートの方が走りやすいと思ったので、今後もこのルートで走りたいと思っています。(総距離は600mぐらい伸びています)

 

まず、ガーミン先生の40kmTTタイム

 

f:id:NicolaRossi:20190328213507j:plain

 

前回(昨年11月)の、1時間18分44秒を2分44秒短縮。

コースが一部違うので単純比較はできませんが、大幅な短縮になりました。

 

今回のトータルデータは

 

f:id:NicolaRossi:20190328214255j:plain

1時間22分24秒でした。

これも、単純比較はできませんが前回(昨年11月)の1時間24分29秒を大幅短縮。

しかも、600m程度距離が伸びているので、2分以上は確実に短縮しています。

 

ま、コースが一部違うので(仮)ですけど。

これからはこっちのルートで走ります。

イチロー選手の考え方から学ぶ

どうも、おっさんです。

 

イチロー選手が引退。

同年代なので、なおさら感慨深いですね。

 

個人的に強烈な印象は2009年WBC決勝での勝ち越しセンター前ヒット。

当時、出先の車の中、ラジオで聞いていました。

ヒットを打ったという実況を聞いた瞬間「よっしゃー!」と叫びました(笑)。

もう、10年前のことなんですね。

 

そのイチロー選手の引退会見で個人的な注目点。

 

www.youtube.com

 

質問

イチロー選手の生き様で、ファンの方々に伝えられたことや伝わっていたら嬉しいなと思うことはありますか?

 

答え

生き様というのは僕にはよくわからないんですけど、「生き方」という風に考えれば「人より頑張る」ことなんてとてもできないんですよね。あくまでも、「秤は自分の中にある」。それで自分なりに、その「秤」を使いながら自分の限界を見ながらちょっと超えていくということを繰り返していく。そうするといつの日かなんか「こんな自分になっているんだ」っていう状態になって、だから少しずつの積み重ねがそれでしか自分を越えていけないという風に思うんですよね。一気に高見に行こうとすると今の自分の状態とギャップがあり過ぎて、それは続けられないと僕は考えているので、まぁ地道に進むしかない…。進むというか進むだけではないですよね。後退もしながらあるときはもう後退しかしない時期もあると思うので、でも自分がやると決めたことを信じてやって行く。でもそれは正解とは限らないですよね。間違ったことを続けてしまっていることもあるんですけど、でもそうやって遠回りすることでしかなんか「本当の自分」に出会えないというか、そんな気がしているので、そうやって自分なりに重ねてきたことを、まぁ今日のゲーム後のファンの方の気持ちですよね。それを、見た時にひょっとしたらそんなとこを見ていただいていたのかなぁという風に、それは嬉しかったです。そうだとすれば嬉しいし、まぁそうじゃなかったとしても嬉しいです。

 

これは、私も前に記事にしましたが…

nicolarossi.hatenablog.com

これを、イチロー選手は実践しているってことなんですね。

 

「人より頑張ることなんてできない」

「秤は自分の中にある」

 

まさにその通りです。

「知足者富」の具現者なんですよね。

 

この会見を見た一般人は「イチロー選手は謙虚だな」と思った人が多いかもしれません。

偉大な実績を残しているので、それをもっと「誇っていい」と思うでしょうね。

でも、イチロー選手は「そんなことは関係ない」と思っているのでしょう。

 

小学生の頃に野球を始めて、それからずっと野球を「探求」し続けてきたわけです。その中で、自分なりに努力して成長して世界的な選手になった。そのこと自体がイチロー選手を今まで支えてきた「自信」になっているのでしょうね。

 

なので、結果としての「偉業」はあるにしても、それは「おまけ」みたいなものに過ぎないというか、イチロー選手自体を形作っているのは今までの「鍛錬」なので、そういう付いてきたモノに頼って自分を「飾り付ける」必要性もないわけです。

 

イチロー選手の今までの発言を見てみても、「等身大の自分」を大切にしているということを感じます。自分の力よりも大きく見せることもないし、小さく見せることもない。「これがイチローだ」という風にイチロー選手自身が実感している「自分」を表現したいと思っているだけなんでしょうね。

 

私は、その辺の一般人のおっさんですが(笑)、ものすごく共感できました。

 

イチローは天才だから」という印象で、「一般人には理解も実践も不可能」という人がいるかもしれませんが、イチロー選手は一般人にも理解実践できることを言っていると私は思いました。もちろん、その実践結果による到達点は人によって違うでしょうけれども、「知足者富」という中身は変わらないのではないか?と私は考えるからです。

人に聞いただけのことは実際には理解できていない

どうも、おっさんです。

 

この記事

nicolarossi.hatenablog.com

【実体験と伝聞】と【個体と群体】の項目を追記しました。

 

なんでもそうなんですが、ロードバイク界隈で言うと「ペダリング」のこととかの技術面の話は、「こうすればいいよ」と聞いて「なるほど」と思っても実際にやってみたら「?」ってなることが多いと感じます。

 

例えば、ケイデンスの話なんですが、効率的なのは「90回転が目安」ということになっています。で、この情報に加えて「人によって効率的な回転数は違う」とも言われています。まぁ、人はそれぞれ体格や柔軟性等違いますから、それは当たり前の話ですよね。

 

で、そういう情報を知っている素人がどういう判断をしやすいかというと

 

「自分は高回転がしんどいから”低回転型”なんだ」(トルク型)

「自分は低回転がしんどいから”高回転型”なんだ」(回転型)

 

となっちゃうんですよ。

これどっちも「しんどいから」が理由なんですが、それだと見誤っちゃう可能性があるんですね。

 

単に、しんどい方の回転数で練習していないだけかもしれません。特に、速く走れない人で「自分は低回転型」と思い込んでいる人は、高ケイデンスの練習を全くしていない人が多いと感じます。

 

「90回転が目安」というのは、高回転も低回転も出来る人がその回転数で回せば「効率がいい」場合が多いという話なだけで、「人によって違う」としても高回転の練習をしてない人が単に出来ないから「自分は低回転型だ」ということにはならないんですよね。

 

本当は「自分で体験」しないとわからないことなのに、他人が言っていることで「わかった気」になっちゃうし、自分で探求して答えを導き出すことをしていないということ自体にも気付かないんですね。

 

他にも、「ペダリングにはこの筋肉をこういう風に使うといいですよ」とか「ポジションはこうですよ」とか、知識としては持っていていいんですけど、自分で体験して探求したペダリングやポジションではないので、単なる聞いたことでしかないんですよね。

 

こういう情報は「自分で探求してわかったこと」を他人に伝えることなのですが、その自分で探求した人は自分がどうやって探求したかの「中身」を何故か伝えないことが多い。わかったこと自体(答え)しか伝えないんです。

 

重要なのは「探求している過程」なんですよね。

 

なので、他人の話は「情報の一つ」という程度に聞いておいて、実際は自分で体験して「自分で探求する」ことが大切だと思いました。逆に、伝えようとする方は「答えだけ教えても伝わらない」ということを理解しておく必要があるということですね。

自己満足では意味がないという発想

どうも、おっさんです。

最近はそこそこ走れていて、先週も久々に3回走れました。

心肺能力も回復してきているので、良い感じになってきましたね。

 

某質問系サイトで、ブルベ(決められた距離を制限時間内に走る自転車イベント)に対して

 

”自分で決めたコースと時間で走ればいいんじゃ?”

 

みたいな質問がありました。

投票で選ばれたベストアンサーが

 

”「認定」があるかないかの違い、個人的な達成感や自己満足なら勝手にすれば良い”

 

ということでした。

そもそも、ブルベとはフランス語で「認定」という意味なのでそういうことなんですよね。そういうことなんですが、私はこのやり取りを「面白いなぁ」と思ってしまいました。

 

「認定」というイベントなんで、「認定」される為に走っているのは当たり前なんですよね。でも、どうして「認定」される為に走るのか?ああ、やっぱり出てきちゃいました「承認欲求」ですね(笑)。ちなみに、「承認欲求ですよ」っていう回答もちゃんとありました。

 

他の回答で

 

”規定を守って走って「認定」してもらうイベントなんだから、守る気がないなら参加しなければいい”

 

というのもありました。

まぁ、その通りですよね?でも、質問者はそういう意味で言ってないと思うんですね。

 

この質問の本当の意図はわかりませんが、ブルベに対してどういう見方をしているかというと、「ブルベって競争ではないんだから、自分で勝手にやればいいじゃない」ということだろうと思います。(一人で出来ることってことです)

 

つまり、「ブルベ」というイベントに参加するのは、自己満足ではダメで「認定」をもらうことに意味があるということですよね?という質問なのではないかな?と。

 

ブルベの主催者のサイトを見てみると、コースや工程表を公表していますので、自分で「非認定自己ブルベ」(言葉がおかしい笑)を開催することも可能です。「認定」されないのでただのロングライドなんですが(笑)。それじゃあ意味がないということになります。

 

こんな回答もありました。

 

”話す人もなくボッチだったらそれでいいんじゃない?”

 

面白いですねぇ。

この回答者は質問者に対して「お前はボッチだからだろ」と言っているのでしょう。逆に自分は「ボッチじゃないから」と言ってるわけです。ボッチじゃないから「偉い」とまでは言ってないかもしれませんが、「ボッチじゃない」アピールをするということは、それが「価値」があると思っているということですし、自分の方が「上である」と言ってるのと同義なんですね。(本人は意識していないでしょうけど、これって友人を自分の価値を上げる道具と見ているってことにもなるんですよね)

 

で、その根拠はやっぱり他人(友人等)に「承認されている」という満足感なんですよ。「承認される」ことに満足するということは「承認されない」ことに不満ということなので、「承認されない」ことは価値が低いんですね。なので、こういう人は「認定」が凄く重要だと思っているのかな?と考えました。

 

前に書いた

nicolarossi.hatenablog.com

この記事の内容も根本的には同じだと思います。

ロードバイクを趣味で始めると、ネット等の情報から

 

ロングライド出来ないと一人前と「認められない」

 

という「思考」が出来上がっちゃう人がいます。

初心者で楽しく走れるのは60kmぐらいまでの距離なのに、ネットで「120kmは普通に走れる」とかいう情報を見ちゃうと、それをしないと「ダメなんだ」と思っちゃうんですね。

 

それを実行してものすごく「苦しい」のに「しなきゃダメ」と思っちゃうんです。

こういうのも、「承認されたい」という欲求からの行動なんですよね。

でも、この場合は誰かに「承認される」わけでもないので、自分自身が思い込んでるだけです。

自分が楽しい範囲で走ればいいだけなのに、自分で作り出した「他者」に振り回される。

結果、自分自身が「苦しい」という状況になっているんです。

 

みんながやってるから

これが当たり前だから

やらないと恥ずかしいから

etc…

 

自分が「楽しい」と思ってやるのなら別にいいと思いますが、こういう考え方だと「苦しい」方向へ行っちゃう可能性があるということです。自分が(すぐに)出来るかどうかはわからないですからね。

 

自分が「楽しい」という範囲で楽しめばそれでいいんですよ。

そのうえで自分なりに頑張ればいいんです。

 

他人と比べて「上」や「同じ」じゃないと「楽しくない」わけじゃなくて、逆に他人を目指すということが「苦しみ」に繋がっちゃう場合もあるんですね。あくまでも、自分が「どうしたいか」が重要です。

 

ブルベの話も同じことで、「認定された」から価値があるとか「認定されなかった」から価値がないとかいう話ではなくて、例えば同じ200kmを走ったのであれば認定のあるなし関係なく、どっちも「すばらしい」ということなんです。

 

だから、自己満足で良いんですよ。

人間の思考(行動)システム

最近、ブログ記事を書いていると、詳しく説明したいんだけどやたらと長くなっちゃうからカットみたいなことがよくあって、そうなると説明不足からの真意が伝わらないかな?という部分も出てきているので、私がベースにしている考え方をここに置いておくことにします。

 

あくまでも、私の私的な考え方なので、これが「正解」というわけではありません。

(私は、専門家でも学者でもないので書いてあることが正しいということでもないです)

 

 

【人間は欲求に動かされている】

 

マズローの欲求5段階説」によると

 

第5段階 自己実現

第4段階 承認

第3段階 社会的

第2段階 安全

第1段階 生理的

 

主に、この5つの欲求があるとされています。

そもそも、「欲求」とは何なのか?

私は、人間(生物)という個体の原動力となるものと考えます。

全ての欲求は人間(生物)が「生きる(+繁殖する)」為に必要なものです。

 

一番根源的な部分で言うと「食欲」。

 

これは、人間が「活動」する為には絶対に必要です。

お腹が空いている状態では「活動」に支障が出てきます。

何故かというと、身体を動かす為の「エネルギー」がなくなってくるからですね。

 

「お腹が空く」と言いますが、これは「概念」です。

実際は…

 

エネルギーがなくなってきたから補給して!

 

と「脳」が指令を出している状態ですね。

この時に、私たちが感じるのが「空腹感」です。(これも概念)

「空腹感」を感じて、食事をすると「満腹感」を感じます。

 

この時にどういう状況になっているのかというと

 

危険>>>>>>>>>>安全

 

「危険」な状態から脱して「安全」な状態に移行したということです。

(欲求第2段階の「安全」は対外的な安全で、こっちは体内的な安全です)

 

エネルギーがなくなると活動が出来なくなり、「生きて繁殖する」という使命が果たせなくなるので「危険」を感じ、それによってエネルギーを補充できたら活動が継続できるようになるので「生きて繁殖する」という使命を果たすことが出来る方向へ向かうので、「安全」と感じます。

 

つまり、「欲求」というモノは

人間(生物)を「活動状態」(種の保存)に置いておく為に必要ということです。

「食欲」に限らず、全ての「欲求」はこういうモノということになります。

 

やっかいな「承認欲求」も同じです。

 

「承認欲求」は集団(社会)の中で「承認されたい(一目置かれたい)」という欲求ですが、それは社会(集団)の中で「承認される(一目置かれる)」状態になれば、その社会(集団)の中で「必要な存在」になって「生きやすくなる」からです。

 

その社会(集団)に「必要」と思われるということですね。

危険な状態にあっても守られる存在になると言えます。

そして、「必要」と思われるということは、繁殖の機会も増える。

 

つまり、

 

未承認(危険)>>>>>>>>>>承認(安全)

 

と、承認(安全)の方へ向かいたいという欲求です。

 

このように、人間(生物)の思考や行動は常に「生きて繁殖する」という方向へ向かう為に、「欲求」によって動かされているということになります。

 

欲求を満たすと「快」と感じ、満たされないと「不快」と感じます。

 

不快(危険)>>>>>>>>>>快(安全)

 

これが、人間(生物)の思考の根源になっています。

なので、思考は自然と「快」へ向かうようになっているのです。

 

 

【実体験と伝聞】

 

人間は基本的には「体験」したことに対して、これは「快」なのか?「不快」なのか?を判断して、なるべく「不快」にならないように「快」へ向かうようになっています。これが「欲求」の基本メカニズムなのですが、実際に「体験」したこと以外でもこの「快」「不快」を判断する(判断したと思い込む)ことができるようになっています。それは

 

「伝聞」

 

です。

人間は言葉や文字を使うので、他者が体験したことを伝え聞くことが可能だからです。

 

なので、実体験ではない「伝聞」を学習することで「快」「不快」を判断する(判断したと思い込む)ことが可能になるんですね。これは、今現在の伝聞だけではなく、それこそ人類が現れて今まで積み重ねてきたことのほとんどが「伝聞」だということにもなります。(これが文明とも言えるかも)

 

実体験ではないので本当は自分で感じた「快」「不快」ではないのですが、これも人間の思考では学習情報として以降の判断材料に使われるようになります。

 

実体験と伝聞を組み合わせて、より「安全」になろうとするわけですね。

 

 

【個体と群体】

 

承認欲求によって集団に認められた状態が「安全」ということになるので、その集団自体が「消滅」してしまったら「危険」になってしまいます。なので、人間は「個体」で生きているというよりは「群体」で生きていると言っていいかもしれません。繁殖にも有利になってきますしね。

 

なので、「個体」の安全は当然重要なのですが、「群体」(社会)の安全も同じように重要になってくるわけです。

 

つまり、個人の「思考」であっても社会全体の「思考」に影響されるし、またその反対もあるわけで自分と他者が常に相互の「影響関係」にあるということになります。総合的に考えると、「全体」で安全(快)な方向へ向かっているということですね。(そういうエネルギーがあるというだけの話)

 

この話、突き詰めると「宇宙」まで行っちゃうんですが、それはあえて言わないことにします。

(小声で笑)

 

 

【人間の思考は無意識に支配されている】

 

アメリカの学者リベットの実験で「意識的な意思決定」の以前に、無意識的な電気信号である「準備電位」という電気信号が脳内で立ち上がることが確認されています。

 

参考資料1

wired.jp

自分が「指を動かす」と意思決定する以前に、脳内では電気信号が流れて指へ指令を送っているということです。上の参考資料でも書かれていますが、その「準備電位」は意思決定の前に発せられるが、それが実際に指に届く前に「自分の意思」を介入させることが可能です(ただし、ほんの0.2秒だけ)。

 

つまり、

 

脳が指令を出す > 体が指令を実行 > それを(有)意識が認識

(正確には脳指令と実行の間に「意思が起きた」と錯覚する)

 

これが、人間(生物)の基本的な行動メカニズムということです。

「身体を動かす」という部分だけではなく、人間(生物)の行動(思考)全てです。

(有)意識が介在しなくても「無意識」が人間(生物)を動かしているということですね。

 

 

【無意識とは何か?】

 

無意識に支配されているとしたら「怖い」と思うかもしれないですが、無意識は人間の活動(生きて繁殖する)を効率的に行おうとしています。

 

例えば、「ボールが飛んできたから”とっさ”に避けた」という場合の「とっさ」は無意識の反応です。条件反射とも言われますが、身体を守る為の行動ということで言えば、この「無意識」の行動が自動的に「安全」へ向かわせたと言えます。これも、体を動かすということだけではなく、人間(生物)の思考でも同じように「安全」へと向かわせる働きが起こります。

 

無意識下でも危険を感じれば「不快感」が生じて、安全になるように行動します。そして、行動によって安全へ移行すると「快感」(安心感)が生じます。

 

無意識は、人間(動物)が生まれてきてから脳内に蓄積された「生きる為」の情報を元に行動するんですね。

 

赤ちゃんは、お腹が空くと「泣いて」知らせると言われています。でも、赤ちゃんて「お腹が空く」なんて概念を知っているはずがないと思いませんか?わかるのは、大人と同じように「エネルギーが少なくなったよ!」という脳の指令を受けて、「空腹感」(これも概念)を感じて「泣く」わけです。その「空腹感」を赤ちゃんはどのように感じているのだろう?と考えると、それは

 

「恐怖感」(というイメージ)

 

を感じているのではないかな?と考えます。

この状態が続くと「死ぬ」というイメージです。

だから「泣く」のでは?

(もちろん「空腹が続くと死ぬ」という知識なんてありません)

 

「お腹が空く」ということを理解できるようになれば、そういう概念で理解することができるわけなんですが、人間(生物)は基本的には欲求をそういうイメージでとらえているだけだといえます。

 

つまり、無意識下でも「危険」を感じれば「安全」へ向かおうとするということです。

そうしなければ死んでしまう可能性があるからです。

 

 

【有意識とは何か?】

 

無意識に支配されているのに、有意識って何なの?ということ。

 

大体の人は「有意識」の部分が「自分自身」だと思っていると思います。

が、有意識は無意識を「確認」しているだけと言えるかもしれません。

無意識が下した判断を、有意識で確認する。これだけですかね。

リベットの実験でわかるように無意識を否定することもできます。

 

今のところ私が考えているのは

 

無意識 = イメージ領域

有意識 = 言語領域

 

ということです。

有意識は言語で考える部分かな?と思っています。

無意識から上がって来たイメージを言語に変える部分。

 

 

【人間に自由意志があるかないか】

 

上の参考資料1のリンク記事では、人間の自由意志は(一応)「存在する」ということになっています。ですが、脳の「準備電位」による行動(私の言う無意識)を否定できるとしても、それを否定する有意識の意志はどこから来ているのか?という問題が発生します。

 

私は、上の【有意識とは何か?】で書いてある通りに、有意識は無意識を確認するだけの部分だと考えているので、その有意識自体も無意識の「上積み」でしかないような気がします。

(無意識から現れているだけの部分)

 

参考資料2

linguo-inst.com

私の考えと同じようなことが、こちらの記事で詳しく書かれていました。

私も人間に自由意志はないのではないか?と考えます。

 

 

【まとめ】

 

人間は、欲求によって「生きて繁殖する」方向へ向かうようになっています。それは無意識の行動なので、特にそれを考えなくても生まれてきてからの(生きる)学習によって、効率的に行動するように自動プログラミングされているようなものといえます。「危険」を避けて「安全」へ向かうようにできているのです。

 

危険な状態を「不快」と感じ、逆に安全な状態を「快」と感じるようになっている。

 

なので、社会生活の中で「快」と感じることは「安全だ」と無意識が感じていて、「不快」と感じることは「危険だ」と無意識が感じているということになります。

 

参考資料3

staff.aist.go.jp

こちらの記事で、専門的な内容で詳しく書かれているので参考に。

 

 

 

※とりあえずの内容なので、今後追記変更していきます。

私がロードバイクを始めた理由

いよいよ、暖かくなって走りやすくなりましたね。

どうも、おっさんです。

 

私がロードバイクに乗り始めた理由は、今まで書いてきた通りに

 

「ダイエットの為」

 

です。

でも、その「ダイエット」にも理由があるんですね。

それは、

 

ライブコンサートに行く為」

 

です。

楽器も今までいろいろとやってきているのですが、生の演奏を聴くのが基本的に好きなんですね。私。

 

最大で70kg弱まで体重が増えた私ですが、増える前の55kg前後の時は毎年数回「ライブコンサート」へ行っていました。でも、太ってからはしんどくなったので行かなくなっていたんですね。

 

ところが、2016年にどうしても行きたいライブコンサートがあったので

 

「痩せなきゃいけない」

 

という想いが大きくなりました。

何故かというと、私の行く「ライブコンサート」は基本的にスタンディングだからです。

70kg弱も体重があると、2時間程度のライブ中に「立っていられない」からですね(笑)。

 

でも、ロードバイクの選定に苦慮していて、実際に買えたのはその行きたかったライブ後でした(笑)。なので、70kg弱の体重でそのライブコンサートに行ったのですが、自分の体重が支えられずに足の指から血は出るし(笑)、関東でのライブだったので電車移動とかの徒歩での移動でも足が痛くて痛くて(泣)。

 

翌年も関東でのライブだったのですが、その時はもう55kg前後に戻っていたし、ロードバイクに乗ることによって足腰も鍛えられていたのでライブでのスタンディングも、電車移動での徒歩でも余裕でこなせました。

 

つまり、

 

「ライブ」の為に「ダイエット」をする手段として「ロードバイク」があった

 

ということです。

「ダイエット」をするということは一般的には「苦しい」と思われています。

それは、「何の為にダイエットをするのか?」ということが曖昧だからなんですね。

 

「ダイエットしたら人生ハッピー」

「ダイエットしたらモテる」

「ダイエットしたら~」

 

「ダイエットしたらこうなるかも?」みたいな話で、ほとんど「ダイエット」すること自体が目的になっていて、その「ダイエット」をしたらどうなるかなんて考える人はいません。なので、「ダイエット」が成功し辛いんですね。

 

ダイエットは目的の為の手段であって、それが目的化してしまうとダメってことです。

ロードバイクはダイエットにもなるし」みたいな考え方だと続かないんですね。

ロードバイク乗っても痩せないっていうのはこういう考え方だからです。

 

私の理由である「ライブコンサートへ行く為」ですが、そもそも何故「ライブコンサート」へ行くのか?それは単に

 

楽しいから

 

です。

楽しくなければ行きません(笑)。

 

人の行動で誰にも文句を言われない理由は「楽しい」と思うということです。

自分が「楽しい」と思えることならなんだっていいんですよということですね。

 

「ダイエット」は苦しいけど、「ライブ」は楽しいから頑張れた。

 

一般的にはこうかもしれませんが、私はダイエットの為の手段の「ロードバイク」も楽しめているんですよね。しかも、その手段のロードバイクが今はほぼ「目的」になっています(笑)。

 

「手段の目的化」って一般社会では避けるべきことみたいな認識ですが、実はそうなることの方が「自然」なんじゃないかなと思えてきます。「自然」であるからこそ「避けるべきこと」といわれているのかな?と。(つまり、放っておけばそっちへ自然と向かっちゃうということです)

 

あれ?上で言ってる「ダイエットの目的化はダメ」とは違う解釈ですね(笑)。

考えると、「苦しいこと(ダイエット)」を目的化するとダメっていうことですかね。

 

目的はあくまでも「楽しいこと」でなければいけないということか。

ロードバイクが「目的」になっているのも「楽しいから」ということですね。

抑圧と権力から逃れるのが自転車という趣味?

どうも、おっさんです。

 

今日は、某レビュー系サイトのブログで「抑圧と権力から逃れている自転車という趣味」という記事があったので、それを読んだ感想でも書いてみようかと思います。(直接リンクは貼りませんが、タイトルはそのままなので検索すれば見られると思います)

 

まず、「義務教育における体育の目的」について書かれているのですが、それは「権力に対して従順な主体をつくる」こと、つまり「兵隊をつくる」ことだという主張でした。

 

この見方は、ある意味間違ってないと私は思います。

ただ、この「兵隊」という位置は大人になって社会生活をする上では普通にあることです。

多くの人が、どこかの会社に就職してそこの「兵隊」として働くわけですからね。

体育に限ってのことではなく、学校という集団生活の場自体がそういうところです。

そういう社会構造への反発なんでしょうかね?

(支配されることへの反発?でも、組織って大体そういうもんでしょ?)

 

そして、主さんは「体育の授業が嫌いだった」と言っています。

「体育が嫌い」という人は一定数いるようです。

 

スポーツ庁が平成29年度に運動が「好きか・嫌いか」という調査をしたところ、小学5年生で「9.6%」が、中学2年生で「16.3%」の子たちが「嫌い・やや嫌い」と回答したそうです。この結果から、スポーツ庁では成人後の生活習慣病等の対策の為に、運動嫌いを少なくする活動を活発化させていて、中学生の「16.3%」を半分の「8%」にすることを目標に活動していくそうです。

 

この活動に対して「余計なことするな」という声がネットで見られたりもしました。

(嫌いで何が悪い!ということらしいです)

 

そもそも、運動を嫌いになるのはどうしてなのか?という疑問。

よく聞いてみると、運動が嫌いなのではなく「体育が嫌い」ということらしいです。

理由として挙げられているのが

 

「人前で恥をかかされる」

「他人に迷惑をかけるから」

 

つまり、自分は他人と比較して「出来ない」からということですね。

そこから連鎖して、

 

「出来ないと罵倒される」

 

というのもありますね。

私、40代のおっさんで、それこそ「根性論」がまかり通っていた昭和の時代の子供なんですが(笑)、体育の授業で出来ないからと言って「罵倒」されている場面なんて見たことないんですが、そんな学校あったんですかね?本当にあったとしたら、それはダメなんでそういうのは直さないといけない点ですけどね。

 

私は小学5年生の時に、学校のクラブ活動の時間にサッカーを選択してたんですが、6年生でサッカーが上手い子がいて、多分その子は自分より下手な子たち(私たちの学年の子とか)と一緒にやってもつまんなくて、不真面目にしていたんですよ。そしたら担当の教師がその子に対して「真面目にやれ!」って怒ったというのはありました。そういう、逆の場面なら見たことあります。

 

「罵倒」されるとかいう部分を除いたら「人前で恥をかかされる」や「他人に迷惑をかける」って結局は

 

自分の内面の問題

 

ではないでしょうか?しかも、ネガティブ思考の。

私なら「恥をかかないように」とか「迷惑かけないように」と頑張りますけどね?

(そもそもそんな風に思ったことないですけどね)

 

というと、「やっても出来ないんだよ!」って言う人いますよね?

おそらくですね、こういう人って大きな勘違いをしているんですよ。

 

「他人」と比較して出来ないから自分はダメ

 

これ、完全な間違いです。

そうじゃなくて

 

「自分」が出来るかどうか(やるかやらないか)

 

です。

しかも、上手い人と自分を比べて「ダメ」と思っているんですね。

(あとは、標準以上じゃないとダメとか)

 

私が散々言っている「承認欲求」の問題です。

 

「恥をかく」「迷惑かける」っていうのは、「自分はこう思われているんだ」という内面の問題だと思いますよ。その裏には「他人にこう(良く)思われたい」という「承認欲求」があります。でも、出来ないことをみんなに知られるとその「他人に良く思われたい自分」が崩壊してしまうので、そういう比較されるような場面が「嫌い」なんですね。

 

体育の授業というのは「比較」という部分が表に出やすい(見てすぐわかりますからね)し、思春期の頃は余計に運動が出来るか出来ないかを気にする時期でもあると思うので、そういう「他人から見ての自分」に対して敏感なんだと思います。

 

スポーツ庁が力を入れていくなら、そういう部分のフォローは必要でしょうね。

ただ、それを大人になってからも引きずっているのは、相当「承認欲求」を拗らせているのだと思います。

 

「体育が嫌いだったけどジムへ行くのは大好き」みたいな、大人になってから運動の楽しさに気付いたという人がいます。それは、「体育」はやらされているから嫌だったけど、「ジム」はやりたいと思ってやっているから、みたいなことだそうです。

 

私はそれ違うと思います。

 

結局これも「承認欲求」の問題で、体育は学校のクラスという集団に属して、その中で「優劣」がわかってしまうのでそういう場面にいたくないから「やらされている」と感じているだけなのでは?「ジム」だと利用者同士は基本的に他人ですし、「優劣」の場に立たされることもほぼないので、他人比較での「承認欲求」は刺激されにくいです。

 

例えば、もしその通っている「ジム」で利用者全員強制参加の公開テストを行うことになったら、こういう人はその「ジム」を辞めたいと思っちゃうんじゃないですかね。

 

あと、「ジム」はトレーナーが「褒めてくれるから」いいみたいな意見も見ました。

これも、「承認欲求」ですね。

褒められると「承認欲求」が満たされるからです。

 

このように、「抑圧と権力から逃れている自転車という趣味」という記事の中身は、全部「承認欲求」で説明できる内容です。私が思ったことを言わせてもらうと、

 

承認欲求が満たされない状態 = 「抑圧」

承認欲求を満たしてくれない場面 = 「権力」

 

という風に置き換えているだけですね。

この置き換えはちゃんと成立します。

でも、それを作り出しているのは「自分自身」なんですね。

全部、自分の「脳内」で作り出しているだけです。

 

この方「筋トレ」しているそうなんですが、

 

筋肉にも個人差があってある程度以上の筋量を得られない体質の人がいる。

個人差があるから筋トレは裏切ることがあるし平等でもない。

でも、レースじゃない自転車趣味(組み立てやメンテやただ走らせる部分)は裏切らない。

 

だそうです。

私が上で説明している通りに「承認欲求」を拗らせすぎだと思います。

 

私が思うのは、筋肉に個人差があろうがなかろうが、自分の努力で「鍛える」ということが一番重要なことなんじゃないの?ということです。なんでこの方は「他人」と比較して筋量が少なかったら、そのことがイコール「裏切り」になると思ってるのか?(「筋肉は裏切らない」という言葉への反語というのはわかります)

 

それはやっぱり「他人と比べた自分」が「他人より高くないと意味がない(ダメ)」という意識があるからですよ。なのに、こういう人は何故か「他人と比較される場」に出ることを嫌がるんですよね。しかも、そういう「他人と比較される場」に居ようとしている人をあまり良く思っていない節もあります。

 

他人と比較される場に居ようとする人も「承認欲求」に動かされている人です。

ただ、この場合の「承認欲求」はポジティブな部分が大きいです。

積極的に「他人との比較」に参加しているわけですからね。

「向上心」がある人たちと言えます。

 

私は、そういう「向上心」がもたらされる「承認欲求」の方がいいと思いますけどね。

同じ「承認欲求」から生まれた行動なのになぁ。

 

もう一つ。

「抑圧」の部分で、中学校の「丸刈り強制」についても触れていました。

教師の恣意的な判断で「丸刈り」にせざるを得ないということ。

確かに、生徒の判断で好きに出来ないですから、自由を奪われて「抑圧」されています。

 

私の体験談を話しましょうか。私の地元の中学校も「丸刈り強制」でした。で、私はそれが「イヤ」だったので、私立中学校を受験して合格しました。その結果「丸刈り」にしなくて済みました(笑)。

 

家庭の事情なんかも絡んでくることなので、私の行動をみんなが出来るわけではありませんが、結局のところ「自分で考えて行動」することが大切なのでは?日本は別に独裁国家ではないのですから、やろうと思えば自分の行きたい方向へ進めると思いますよ。(日本で「権力」がどうのこうの言ってる人は、一度独裁国家で生活してみてはいかがでしょうか?)

 

私は体育は得意な方でしたが、それ以外の授業は得意ではありませんでした(笑)。でも、頑張って勉強して私立中学校に入って「自由な髪型」を謳歌させてもらいました。(とは言っても金髪とかはダメですけどね笑)中学生ぐらいの子供にとって「髪型」って重要ですよね。だって、「承認欲求」を満たす道具なんですから。

 

「自分はこういう髪型の人間でありたいんだ!」

 

と「承認欲求」を爆発させるわけです(笑)。

まぁ、モテたいですししょうがないですよね。

(髪型でモテるわけではありません笑)

 

ほら、やっぱり「抑圧」というのは「承認欲求が満たされない状態」でしょう?

言ってるように、学校というのは多かれ少なかれ「承認欲求」を抑制される場なんですよ。

「承認欲求」の抑制を勉強する場と言い換えてもいいかもしれませんね。

 

とかいっている、今の私の髪型は「丸刈り」です。(笑)

なんであんなに「丸刈り」がイヤだったんだろうと思います。

そういう部分の「承認欲求」が解けたというわけですね。

まぁ、おっさんですから思春期とは考え方も変わって当然です。

 

最後に、この主さんは「自転車趣味は平等で開かれた趣味なんだ」的なことを言って締めていますが、残念ながら人間は生まれながらにして「平等」ではありません。

 

平等だったら私の身長が164cmなわけないし(笑)。

私のFTPが180wなわけもありません(笑)。

 

「平等」を勘違いしている人多いですが、社会的な参加への「機会」が平等なだけであって「能力」や「考え方」等は平等ではありません。主さんが言っているような「自転車のメンテナンス」のようなことでも、「知識」が備わっていないと「優劣」が発生します。(主さんは「自転車のメンテナンス」に関しては他人より出来ると思っているのでは?という推測)

 

その「優劣」を自分の中でちゃんと処理できない人が、「平等」という幻想へ傾倒してしまうのではないかな?と私は思うのです。