おっさんの外部記憶装置

おじさんのブログ

2019年ロードバイク

どうも、おっさんです。

 

今年も「もう」終わり。

あっという間。

おっさんですから(笑)。

 

もっと歳とればさらに早くなるのだろうか?

体感してないからわからないですけどね!

 

ということで、今年のロードバイクの振り返りです。

 

昨年は2台目のカーボンロードを導入したり、パワーメーターを導入したり、機材面でけっこうな変化があったのですが、今年は特にありませんでしたね。

 

しいて言えば、ローラー台の導入ですかね。

そのおかげもあって夏以降は練習時間が増えました。

 

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絵にかいたような「右肩上がり」(笑)。

といっても、ローラー台に乗ったのは11月は1回、今月12月は全く乗っていません(笑)。

 

STRAVAのフィットネス値を意識しながら乗っていたので、結果的に練習時間が増えただけですね。

 

STRAVAのフィットネスは

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「78」になりました。(最大値79)

 

先月末が「70」だったので8の上昇です。

ここのところは毎月10ぐらいの上昇だったので、若干スローダウンですね。

 

今の私の場合、1回のライドでトータル2時間前後。

信号停止等のストップを抜くと、1時間半~2時間程度の実走になります。

 

TSS(トレーニングインパルス)値は最大で170ぐらいにはなりますが、日々の疲労を考えると毎回その最大値は出せません。なので、疲労が溜まっている日は100TSSでも稼げれば良い場合も多いです。

 

TSSは「強度×時間」なので、疲労があって低強度でしか走れない場合も「時間」をかければTSSは稼げます。ただ、低強度で150TSSとかを出す場合は最低トータル3時間程度は見ないといけないんですよね。

 

現状で、その時間を走る場合は週に1回程度が限度でしょう。

が、現時点でそれをするのが私にとって意味があるのか?ということ。

まったく意味がないとは言えないのでやってみないとわからないのですが(笑)。

 

今月は1,000km以上走っているのですが、走力が上がったかというと「?」微妙なところですね。

 

パワーはローラー台での20分走をしていないのでよくわかりませんが、最近は地元のロードバイク乗りの定番の練習コースを私も走っていて(関東で言うと尾根幹みたいな?)、信号一つだけ引っかからなければ20分パワーが計れるので、そこでの20分パワーは最大217wでした。

 

なので、計算上はFTP206wが今のところの最大値です。それが今月の半ばぐらいで、そっから信号に引っかかりまくりで(笑)20分パワーは更新してませんが、ガーミン先生の自動設定FTPは現在203wになっています。そこからの推定値で言うとFTPは約205w(200~210w)程度かな?というところですね。

 

体重が

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今月平均で52.4kgなので、PWRは「3.91w/kg」。

最低値は51.5kgとかだったので、まぁ、だいたい4倍弱なのかなぁというところです。

 

こうして見てみると5kg程度は体重落ちているんですね。

ダイエットはしてないですが(笑)。

 

数値がどうかということは置いといて、体感としては

 

「めっちゃ楽しい!」

 

ということです。(笑)

前にも書きましたが、特にヒルクライムが格段に楽しくなりました。

 

昔よく行っていた都市部にある行程約2kmで平均勾配5%程度のヒルクライムがあるんですが、そこは勾配10%以上がほぼ無いので「攻め」で走っても平坦と同じ感じでゴンゴン走って行けて楽しいです。

 

というように、現時点でも体感値はかなり良い感じになっているので、数値的な部分に関してはこれ以上は上がってもいいしそうでなくてもいいかなという感じですかね。

 

一般的なサラリーマンがレースに出る場合の(練習時間の限度)目安としてCTL70~80程度が最低ラインらしいので、このぐらいの練習量であればロードバイクを基本的に楽しめる走力になるのではないかな?と私は体感できているのだと思います。(それ以下だと楽しめないわけではないですが)

 

レースで入賞とか富士ヒルでシルバーとかを目指すなら、ここが基本ラインでもっと練習量を増やさないと難しいということでしょうね。

 

私はレースに出ないので、ここからはどうなるのかわかりませんが(笑)。

 

とりあえず、ヒルクライムが楽しくなってきたので来年はもっと上ってみたいのと、それに伴ってのロングライドもしてみたいなという感じですかね。

新世紀エヴァンゲリオンで見る、自分と他人。(ネタバレ注意)

どうも、おっさんです。

 

今日はクリスマスですね。

クリスマスはイエス・キリストの降誕祭ということで、キリストが生まれた日ではないそうです。

 

ということで(?)、今日はキリスト教を引用したアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」で見る、「自分と他人」について書いてみたいと思います。

 

新世紀エヴァンゲリオン」のネタバレが含まれますので、まだ観てない、観てみたいと考えている方は読まないほうが良いですよ?(笑)。それに、観てないと今回の話はさっぱり意味がわからないと思うので(観ていても意味がわからない可能性が大きいです笑)、それでもこの記事を読む方にはあしからず(笑)。

 

一応、観てない方も読むかもしれないので、「新世紀エヴァンゲリオン」がどういうアニメかの説明。

 

1995~1996年にかけて、テレビ東京系で放送されたSFアニメで、汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンに搭乗した14歳の少年少女が、要塞都市第3新東京市に襲来する「使徒(シト)」という謎の生命体と戦うという内容の物語です。

 

私は、深夜の再放送(毎週4話ずつのセットで放送されていた)でたまたま観て知って、その直後に放映された劇場版も観に行きました。ていうか、そもそもその深夜の再放送は劇場版の宣伝で放送されていたわけで、私はまんまと釣られたということです(笑)。たしか、今はなき渋谷のプラネタリウムがあったビルの劇場に観に行って、めちゃくちゃ人が並んでいるのを見て「人気があるんだ」と初めて把握したんですね(笑)。※調べたら、東急文化会館ですね。今はヒカリエがある場所。

 

本放送は視聴率があまり良くなかったらしいですが、制作予算と時間が次第に尽きてきて、その所為(?)もあって25話と最終26話では登場人物の内面だけにフォーカスした内容だったので、観ている方は訳がわからず「は?ふざけんな!」となり、抗議の声(?)と共に評価の声も大きくなり劇場版でちゃんと作りなおしたという流れらしいです。その劇場版も、本来は1997年春公開の1本で終わる予定だったのが、制作の遅れから春公開は物語の総集編部分と最終2話の作りなおしの途中までで、夏に最後までの部分が放映されました。

 

来年2020年に放映される最終作(?)までの一連の「新劇場版」もあり、それも旧劇場版と一部違うストーリー構成になっていますが(けっこう違いますけどね笑)、基本的には同じ内容です。

 

今回、私が書くのは旧劇場版までのエヴァの内容を元にしています。とは言っても、エヴァの内容を私なりに解釈したというよりは、私の考えを深めていくうちに「あれ?エヴァの話の内容や設定ってこういうことともとれるかな?」と思ったことになります。なので、別にエヴァの謎を解いたって話ではありませんし、私の解釈が正しいということでは全くありません(笑)。

 

エヴァの作者は庵野監督ですが、エヴァの物語の内容は「4年間壊れたまま何もできなかった自分の、全てが込められています」とのことなので、庵野監督自身がどのようにして立ち直ったか?ということが現れているのだということでしょう。

 

「じゃあ、俺壊れてないし立ち直る必要もないから、関係のない話だな」と思うかもしれませんが、そういうどん底ではなくても、日々のちょっとしたストレスやトラブルを避けるヒントになると私は思っています。

 

 

使徒はどうして襲ってくるのか?

 

第11話で主人公のシンジが「どうして使徒と戦うのか?」と疑問を呈します。

するとアスカが「訳の分かんない連中は排除するのが当たり前」と言う。

 

設定上は、第3新東京市の地下ジオフロントに張り付けにされた第2使徒リリス」(第1使徒アダムだと思われている)に接触する為にやってきていることになっています。

 

劇場版25話でミサトがシンジに使徒が何なのか説明します。

「私たち人間はね、アダムと同じリリスと呼ばれる生命体の源から生まれた、18番目の使徒なのよ。他の使徒たちは別の可能性だったの。人の形を捨てた人類の。ただ、お互いを拒絶するしかなかった悲しい存在だったけどね。同じ人間同士も。」

 

つまり、「敵」だと思っていた使徒も自分達人間と同類だったということですね。そして、同類だと知っている人間同士も「拒絶するしかなかった悲しい存在」だと言っているわけです。

 

アスカの「訳の分かんない連中は排除するのが当たり前」という言葉を見てみると、この「お互いを拒絶するしかなかった悲しい存在」というのは、「訳の分かんない連中」という部分が起点になっていると思います。

 

例えば、私が乗っているロードバイクで言うと、「車道を高速で走っている自転車に乗っている”訳の分かんない連中”は排除するのが当たり前」ということで、自動車ドライバーが幅寄せしてきたりするという状態のことです(笑)。そして、そういうことをする「訳の分かんない連中(ドライバー)」に対して「何しやがる!」となるわけですね。

 

同じく第11話で碇指令が「所詮、人間の敵は人間だよ」と言います。

これも「お互いを拒絶する」という部分にかかっていますね。

 

これは、入れ子状態になっていて、「人間 対 使徒」と「人間 対 人間」は同じだということが示唆されています。

 

どちらの状態も

 

「自分と他人」

 

ということを現わしているのだと思います。

「自分と他人」の戦いの話です。

 

 

使徒にも色んな使徒がいる

 

使徒は色々なパターンで攻めてきます。その形態も攻撃方式も弱点も様々です。それぞれの使徒にそれぞれの特徴があります。示唆通りに人間(他人)と同じですね。拒絶が激しい使徒もいますが、人間とコミュニケーションをとる使徒も現れます。最後の使徒である「渚カヲル」ですね。カヲルには第1使徒アダムの魂が宿されています。

 

カヲルの存在は「理解できそうな他人もいる」ということを示唆しているのではないか?と思います。ただ、物語の中では「使徒(敵)」だとわかった途端にシンジは「裏切ったな!」となり、結果消してしまいます。

 

カヲルの言葉で「生と死は等価値」とありますが、これは表面上の「生と死」というよりも、自分と他人の中での「生と死」だろうかな?ということです。これは次で。

 

 

・問題のTV版第25話と第26話

 

「わけがわからない」最終2話です(笑)。

この2話は「人類補完計画」を登場キャラクターを使って表しています。

 

人類補完計画とは「欠けた心の補完」です。

それぞれの人の心を一つにして永遠のやすらぎを得る。

それぞれの人の欠けた部分を、それぞれみんなの心で補完する。

これが人類補完計画です。

 

ミサトはこう言います。

「他人が勝手に人の心を一つにまとめるのは余計なお世話。ただの慣れ合いでしょ。」

 

しかし、リツコはこう返します。

「だけど、あなたもそれを望んでいたのよ。」と。

 

これ、意味が分からないかもしれませんが、例えば、私が言っている「寛容であるべき」というようなことを他人に要求する人でわかります。

 

「寛容であるべき」という考えは個人としてはあっても全然構わないと思います。だって人それぞれ考えがあるのですから。でも、それを周りの人や社会全体に対して「寛容であるべき」というのは、考え方の強要でしかありません。あらゆることに対しての寛容か寛容でないかは、それぞれ個人の判断で決められることではないでしょうか?

 

これは、ミサトが言っている「他人が勝手に人の心をまとめるのは余計なお世話」と言っている通りのことです。

 

しかし、社会のほとんどの人はこれを意識せずにやってしまいます。

なので、リツコの言う通りに「それを望んでいた」となるのです。

 

他人に対して自分と同じ考え方を要求するということは、「その人の心を自分の心とまとめたい」ということになってしまいます。

 

これが、「欠けた心の補完」ですね。

 

ここで、カヲルの言葉「生と死は等価値」を見てみます。

これは、肉体の「生と死」というよりも、人間関係での「生と死」ではないかな?と考えます。

 

どういうことかというと、この第25話でシンジに対して「どうしてエヴァに乗るのか?」という質問が投げかけられます。シンジは「みんなの為だから」と答えると、アスカが「それは自分の為でしょ?」「他人の為に生きているんだって思っている」と言います。

 

つまり、シンジは「他人の為にエヴァに乗る」ことによって「生」を感じているが、それは結局自分の為だということです。他人から幸せを与えられることを「生きる喜び」だと感じているんだと。では、他人から幸せを与えられなかったらそれは「死」なのでは?

 

対して、カヲルは「生と死は等価値」だと言います。加えて「自らの死、それが唯一の絶対的自由なんだよ」と。この「自らの死」というのは自殺ということではなく、シンジと対で見るならば「他人から幸せを与えられることない」状態と見ることができます。つまり、他人が自分に幸せを与えるかどうかなどという、他人任せな「幸せ」に縛られていない状態なので「絶対的自由」だということです。

 

要は、「生」と「死」のどちらも自分にとっては「幸せ」だと言っているということですね。

 

例えば、クラリスやソラに乗っていると「ダサい」と言われる、などということを気にしている人は、他人に「カッコイイ」と言われるか「ダサい」と言われるかで、「幸せ」か「幸せじゃない」かが決まってしまう人だということです。

 

ダサいと言われると傷付くので、「そんなこと言うなよ」と言ってしまいますが、それも「欠けた心の補完」行為なのですね。

 

 

・ちなみに、この人類補完計画は間違い

 

どうして間違いかというと、結局シンジは「心の補完」をやめて元の「欠けた心」の人間に戻ったからなんですが、実はミサトの言う通りに「他人が勝手に人の心をまとめる」ということ自体が間違いなんですね。だってミサトの言う通りにそんなのイヤでしょ?(笑)。

 

自分の行動は自分で決めるというのが「自由」で「幸せ」だからです。

 

カヲルは理解できるかもしれない「他人」として登場しましたが、その理解できるかもしれない他人こそが自分の目指すべき自分なのでは?

 

 

・他人本位ではなく自分本位で生きるのが幸せということ

 

結局は、私が前から言っている、他人がどうかではなくて「自分がどうか」で決めましょうという話です。

 

 

などと、わけのわからないことを言っていますが、全部私の妄想なので真に受けないようにしてください(笑)。

ツバメは私に何も要求しないし、私もツバメに何も要求しない。

どうも、おっさんです。

 

このタイトル見てどう思います?

「人間とツバメは意思疎通できないから、そんなの当たり前じゃん」

というところでしょうか?

 

でも、前回書いた通りに、ツバメに巣を作ってほしくなかったら、巣作りされそうなところに細工して巣を作れないようにすることもできます。そしたらツバメは「ここには作れないな」と考えて別のところへ行くでしょう。

 

ツバメに「巣を作るな」と要求したということです。

 

でも、ツバメは人間に対して「どうして巣を作らせてくれないんだ!」とは要求しません。

まぁ、ツバメは単に「ここには作れない」と思うだけですからね(笑)。

 

というように、「生きる」というエネルギーがぶつかり合ったら何らかの変化が起こるということですね。

 

フリッパーズ・ギター」の2ndアルバム「CAMERA TALK」に「全ての言葉はさよなら」と言う曲があります。この曲の中のフレーズに…

 

「分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ」

 

とあります。

 

私が初めてこの曲を聴いたのが高校生の頃なので、その当時の気持ちはよく覚えていないのですが、その頃からずーっとこのフレーズが頭の中に残っています。なんとなく「寂しい」感じがするのですが、これが「現実」だよなという風に感じていたのではないかな?というところです。

 

どの位の人がそう思っているのかわかりませんが、一般的には「話せばわかる」「分かり合える」ということを前提として人と人は触れあっているのではないかな?と思います。

 

なので、このフレーズのように「分かり合えない」と言われると、拒否反応を示す人もいるのでは?

 

前回の記事で書いたように、「どうして寛容になれないの?」と言っている人はこの「分かり合える」ということを前提に話をしていると私は考えます。

 

でも、私は基本的には「分かり合えない」ということを前提として考えているのです。

 

それは、今まで書いてきた通りに「それぞれのエネルギー」が出会った場合に、それは必ず「ぶつかり合って」しまうからです。人はそれぞれ「違う」のが当たり前だからです。

 

ところが、「どうして寛容になれないの?」と考えている人はそれがわかりません。人は分かり合えると思っているし、自分の考えに「みんな」賛同してくれると考えているからです。

 

どうして「みんな」賛同してくれると考えいるかというと…

 

「自分の考えが正しい」

 

という考えがあるからですね。

あ、誰でも自分の考えに沿って行動することが良いとは私も考えているのですが、この場合の「自分の考えが正しい」というのは、自分以外の誰にとってもということです。

 

つまり、社会全体で見た場合に「自分の考え”こそ”が正しい」と思っているということです。

 

しかし、私がこれまで書いてきているように、人やその他の生物、宇宙のすべての事象を含めて、それぞれのエネルギーの形態があるわけで、どれか一つが「正しい」ということにはなりません。それぞれのエネルギーの形態というのは単なる「可能性」に過ぎないと考えます。だから、「それぞれ違う」わけです。

 

もう一つの視点で言うと、「分かり合える」という考え方は

 

「分かり合いたい」

 

という欲求から出てきているとも考えられます。

「分かり合いたい」から「分かり合える」と思っているということです。

 

この「分かり合いたい」というのは、実は…

 

「(自分を)分かってほしい」

 

ということなのでは?と私は考えます。

つまり、承認欲求です。

 

結局は、自分のことを分かってほしいだけなのでは?ということです。

 

「分かり合える」ということを前提で人と接している人は、現実問題で分かり合えなかった時に

 

「どうしてわかってくれないんだ!」

 

という「感情」が起こります。

「分かり合うのが」前提なのでそうなりますよね?

それって「ストレス」になっているということです。

 

でも、「分かり合えない」ということを前提で人と接している人は、たとえ分かり合えなかったとしても

 

「まぁ、元々分かり合えないんだからしょうがないよね」

 

となって、それは大したストレスにはなりません。

 

このように、「分かり合う」のが前提の人は他者に対して「要求」するようになります。本人は「要求」しているつもりはないのかもしれませんが、「どうして私の事をわかってくれないの?」「どうして〇〇してくれないの?」という考えで頭が支配され、他者に対して「要求」している状態になってしまいます。

 

「どうしてもっと寛容になれないの?」というのもこれですね。

 

自分と他人は「違う」んですよ。

みんな本当は知っていると思いますよ?

ツバメはただ生きているだけで、私はそれをただ見ているだけ。

どうも、おっさんです。

 

前回の記事

nicolarossi.hatenablog.com

の続き。

 

前回の記事では、「生きる」ということは「表現する」ということですよということを書きました。

 

「生きる」 = 「表現」

「表現」 = 「生きる」

 

どっちでも成立します。

どちらも同じということですね。

 

なので、「表現」というのは、私たちが一般的に認識している芸術性等の表現だけに留まらず、単純に生きて活動しているという状態が「表現」ということです。

 

私がどうしてこんな記事を書いているのかというと、この

www.youtube.com

動画を見たからなのですが、今回はこの動画について私が思ったことを書きます。

 

この動画、要約すると…

 

みんなもっと「寛容」になろうよ

 

ってことですね。

それ自体はメッセージとしてアリだよねとは思うんですが…。

 

「生きる」とは「表現」することだと私は考えました。

その「表現」とは「内から外へ」のエネルギーであるとも考えます。

 

なので、生きているということは人それぞれ内から外へのエネルギーを発しているということです。

 

だとすれば、「人それぞれのエネルギー」なので、どうしてもそれが「ぶつかり合う」ということは避けられないんですよね。人それぞれの考えがあって、それがエネルギーとして放出されているわけなので、そのベクトルの微妙な違いから「ぶつかり合う」のも自然な事だと思います。

 

私の考え方なのですが、この「寛容」という言葉がイマイチしっくりきません。

 

寛容とは「よく受け入れる」「受け入れて人を許す」等という意味なんですが、ではこの「寛容になろうよ」と言っている人は、はたして「寛容」と言えるのでしょうか?

 

私は、本当に「寛容」な人というのは、周りで起きたことに対してただニコニコして受け入れているだけの人だと思います。この動画のように、他人に対して「どうしてもっと寛容になれないの?」等とは言わないと思うんですよね。

 

それは何故かというと、「寛容」であるということはその「不寛容」な状態をも受け入れて初めて「寛容」が完成されるからです。この動画を出している時点で、既にそうなっていないということが証明されていますよね?

 

つまり、この動画で求められているような社会全体としての「寛容」というのは元から成り立たないと言えるわけです。「寛容」というのは、人それぞれで「寛容」であるかないかというごく個人的な状態にしかならないのです。(寛容のパラドックスという考え方)

 

人が生きて行動しているという「本質」で考えると、前回の記事から言っている通りに「人それぞれのエネルギー」によってそれぞれが「表現」しているだけなので、そのそれぞれの表現が「ぶつかり合う」のは本質的に避けることのできない状態と言えます。

 

なので、その「ぶつかり合う」状態を

 

どうして避けられないの?(寛容であるべき)

 

と言ってみても、それは「生きる」という本質から見れば無理な話ということがわかります。

ここで、これを否定するありがちな考え方を出してみます。

 

「人は考えることのできる知的な生物だからできるんだ」

 

これです。

私は全く逆だと思いますね。

(人間を高く見過ぎです)

 

人間は考えることができるからこそ、それを避けられないし避けようとしないんですよ。頭が良いから他人をどうにか思い通りにしようと考えてしまう。この状態で危惧されるのは「寛容であるべき」という考えの人ほど窮地に追い込まれやすくなるということです。

 

「寛容であるべき」と言っている人にはある特徴があります。

 

「弱者側」あるいは「弱者の味方側」

 

の人ということです。

弱者を蔑ろにしてもいいっていう話じゃないですよ?

(ていうか、私は弱者もそれ以外も生きているエネルギーとしては同じ立場だと思っている)

この動画の内容で言えば、「炎上の被災者側」ということですね。

 

そもそも、どうして「炎上」するんですかね?

これ超簡単ですよ。

 

「炎上するような動画を上げたから」

 

たったこれだけです。

自分で火をつけただけ。

で、「どうして炎上するんだ?」と言っている。

 

え?その動画上げなきゃ済んだ話では?

その動画上げなければ、炎上もしないし謝罪もしなくて済んだのでは?

 

他人に寛容であるかないか要求する前に、自分達の行動を見直した方が良いと私は思いますけどね。

 

あと、Twitter等でクラリスとかソラの自転車乗ってるとダサいとか言われるっていうのもありますが、そういうのって私が前に書いたように「ファッション」で機材を選んでいる人なので、言っていることを真に受ける必要はないとしか言えないですね。

 

それに、そういうのって現実世界でもあるでしょう?

「その靴ダサくね?」「その髪型ダサくね?」

思春期の年頃だとだいたいこんなこと言われたりします。

大人が言ってたらさすがにアレですけどね(笑)。

 

中学生がTwitter上でそういう応酬してたら微笑ましく見てあげるだけです(笑)。

これも、言われたくなかったら無暗にTwitter上に晒すなとしか言えません。

(承認欲求を満たしたいだけの行動なんだから)

 

ツバメの話してますが、ツバメは別に私に対して「表現」を見てほしいと思っているわけではなくて、単に「ツバメ」として生きているだけで、私はそれをたまたま見ているだけなんですよね。

 

ツバメの巣の下って糞で汚れるので毎日掃除します。

人によってはそれが邪魔くさいと思う人もいるのでは?

車庫のクルマの上に巣作りされたらクルマが汚れます。

そうなったらそこに巣作りされないように対策するかも?

すると、ツバメはそこの家に巣作り諦めるかも?

 

人と人も同じことですよ。

自分が何かしたら、それに反応する人がいる。

反応した人に対してまた反応する。

 

生きているというエネルギーは「ぶつかり合う」ものなんですね。

毎年やって来るツバメ

やっと、暖冬らしくなってきました(笑)。

 

どうも、おっさんです。

 

唐突ですが、私の家には子供の頃から毎年「ツバメ」がやって来ます。

(私が生まれる前からなんでしょうが…)

巣作りをして、卵を温めて、子育てをしてまた旅立って行きます。

 

それが、ずーっと続いているということです。

田舎では当たり前の光景かもしれませんね。

 

単純に、「生き物ってこういうものなんだ」としか思っていませんでしたが、そもそも、その生き物の行動ってなんなの?って思いませんか?思わない?私だけですか?(笑)。

 

まぁ、DNAに刻まれているからそういう行動をするんですよって話なんですが、じゃぁDNAにはどうしてそういう行動が刻まれているんですかっていう話で…。

 

ツバメって言っても、この世の中にいきなり「ツバメ」が現れたわけじゃなくて、地球に生物が出現してそれが巡り巡って「ツバメ」になったわけですよね?つまり、毎年、私の家でツバメが命を繋いでいるのと同じように、巡り巡る命が「ツバメ」になったということです。

 

私たちはこれを「生きる」という概念で表しているんですが、「生きる」って何なんですかね?

 

それを考えてずーっと辿って行くと、「宇宙の始まり」に行き着くわけです。宇宙の始まりって言うと「ビッグバン」なんですが、これ実は「無から有」的な事ではなくて空間の揺らぎから今現在の宇宙が生まれたということらしいですね。

 

そう考えると、宇宙全体が「生きている」ということになります。

 

ビッグバンから銀河が、そこから太陽系が生まれて地球に生物が誕生して…という今までの繋がりがあるわけです。その繋がりって基本的には一方向なわけで、私はそれを

 

「エネルギー」

 

だと考えます。(これもただの概念ですが…)

そのエネルギーの方向性を私たちは「生きる」という概念で表してるだけだということです。

 

じゃぁ、その「エネルギー」って何かと考えてみると、例えば「太陽」のエネルギーを考えてみると、核融合で熱や光等を発しています。それは「発している」わけですから内から外への一方向です。

 

つまり、「生きる」ということの基本は

 

「内から外へ発する」

 

ということなのでは?

と私は考えます。

 

で、これを私たちの社会では一般的に

 

「表現する」

 

と言います。

であれば、「生きる」ということは「表現する」ということだと言えますね。

 

ツバメは毎年私の家にやってきて「表現」している。

その「表現」を私は子供の頃から見てきている。

 

ということです。

 

その「表現」は生き物によって違ってくるし、私たち人間でも人によって違ってくるんですが、上記の通りに「表現」とは「内から外へ」という方向性だということは変わらないんですよね。

 

そういう法則性に素直に従うならば、「内から外へ」という方向性が「生きる」という基準になるのではないかと私は考えています。

ヒルクライムの何が楽しいの?

暖冬とか言われているのに寒いですよね?

 

どうも、おっさんです。

 

ロードバイクを趣味にしたら始めることって、ロングライドとそれに伴ってのヒルクライムが定番ですよね?でも、一般素人がトレーニングしていない場合はヒルクライムはかなり厳しい状況になるので、私としては「楽しい」なんて状態にはならないのでは?と思います。

 

私は、基本的に平野部で多少のアップダウンのある平坦路を基本に今まで走ってきました。そのトレーニングコースの途中にある200mアップのヒルクライムを「たま~に」上ることはありましたが、回数的にはほぼヒルクライムはしていないと言えます。

 

それはどうしてか?というと

 

ヒルクライムする実力がない」

 

と思ったからです。

約3.3kmの200mアップ、平均勾配6%のヒルクライムなので、単に上るなら難しくないと思いますし、実際今までの私でも上ることはできました。

 

私が「実力がない」と感じたのは

 

「自分の制御下にない」

 

という部分です。

平坦で走っている時と比較して、心拍の面でも、脚の疲労の面でも、「自分の制御」が効かない領域に入ってしまうからです。それは主に10%程度の勾配が続くところで感じていました。(特にTTでは)

 

なので、最近はほとんどヒルクライムをすることがなかったんですよね。

私の場合は、ある程度自分の制御下にある、平坦の方がより楽しかったわけです。

 

でも、一般的にヒルクライムは人気があって、ロードバイクに乗り始めたばかりの人でもやっています。

何が楽しいのか?と思うんですが、理由を見てみると

 

「達成感があるから」

「頂上からの景色が~」

 

的なことがよく言われています。

ただ、肝心のヒルクライムの最中は

 

「なんでこんなことしてるんだ?」

 

というような気持ちになっているとか?

つまり、「達成感」とか「景色」とかのご褒美の為に頑張って上っているということですよね?

 

それって「ヒルクライムが楽しい」とは違うんじゃないか?と私は思います。

そういう「達成感」とか「景色」とかの付加価値の部分を「楽しい」と感じているだけで。

 

あと、ロードバイクって他の自転車と比較して「軽量」という部分が重視される傾向にあるので、そういう軽量な自転車にふさわしい行為ということで、「ヒルクライム」をして楽しむという「楽しさ」もあると思います。(ロードバイク乗りらしい行為をすることによる充実感で、これはロングライドをするという行為とかも当てはまりますね)

 

つまり、「ヒルクライム」という行為そのものが楽しいわけではなくて、それに付随する部分を「楽しい」と感じているんだということです。それが「悪い」と言っているんじゃなくて、それは「ヒルクライム自体が楽しい」とは違うということです。

 

私が今のところロードバイクに乗っている理由というのは、「ロードバイクを走らせるのが楽しい」という部分なんですが、これまでは基本的に平坦路でしかその「楽しさ」を感じることができませんでした。それは、上記の通りにヒルクライムでは「実力がなかった」からです。

 

前に書きましたが、各地の有名処のヒルクライム(激坂以外)の目安タイムを見ていると、おおよそ「PWR3.5w/kg」程度あればそこそこ「楽しく」上れるのではないか?と推測していました。(私基準なので、体重がある人は当てはまらないかもしれません)

 

今までの私のPWRは最大で3.2w/kg程度だったのでその推測には足りませんでしたが、ローラー台の活用等で練習時間が増えてPWR3.5w/kg以上になり、試しにヒルクライムをしてみたら推測通りに「楽しい」ではないですか(笑)。

 

その「楽しさ」とは何かというと、上で書いている通りに「自分の制御下にある」ということです。今まで平坦路で「楽しい」と感じていた領域が、ヒルクライムでも感じられるようになりました。「制御下にある」というのは、心拍であったり、脚の疲労であったり、自転車を走らせる為に必要な自分自身の身体をコントロールすることができるということです。

 

今までの私はその実力がなかったので制御ができない領域に入ってしまい、どちらかと言えば「楽しくなかった」んですね。(でも嫌いではなかったですよ?笑)

 

ヒルクライムが楽しくなってきて、トレーニングコースの途中にある200mアップのヒルクライムも何回か上りましたし、だいぶ前によく行っていた都市部近郊にあるヒルクライムにも上りに行ったりしました。でも、いずれのヒルクライムも距離も高度もそれほどではないので、もっと距離と高度のあるところも上りたいなと思い、さっそく今週行ってきました(笑)。

 

私の自宅から見える山なんですが、標高は590m程度でそんなに高くはありません。でも、トレーニングコース途中のヒルクライムと比較すれば倍以上。麓の上り口から頂上まで6.7kmの約480mアップで、平均勾配7%です。ただ、序盤の1km弱を過ぎると9~12%の勾配が中盤過ぎまで続き、一旦下って後半は平均勾配6%になるという詐欺的なヒルクライムです(笑)。

 

まぁ、私の実力だと計算上30分程度で上り切れるだろうということで行き、実際に計算通り28分半で上れましたが、勾配12%のところはケイデンスが70を切っていたので、脚の疲労制御という部分ではギア比が少しあってないかなということです。現状フロント36Tリア28Tで、リアが30Tならケイデンス70でいける計算になり、脚の疲労を軽減できます。

 

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序盤の1km過ぎからの距離500m平均勾配12%の部分を抜き出してみました。

平均ケイデンス66なので、多少脚への負担がかかってきます。

パワーは230w程度で、30分程度のヒルクライムの中で使うなら今のところ5分程度が限界かも。

 

この後も、9~11%程度の勾配が中盤過ぎまで続きましたが、自分の制御下にはあると感じて上り切れました。その後の後半は平均勾配6%なので全然問題はなかったんですが、気温10℃前後なのに汗ダラダラで拭いながら上っていたので集中できませんでした(笑)。寒いかと思って15℃対応のジャージで来たんですけどね。でも、上り切って頂上で少し休憩した後の下りが猛烈に寒かったんですが…。オールシーズンのジャージにウインドブレーカーで調整した方が良かったですね(ウインドブレーカー持ってないですが笑)。ていうか、夏場は絶対に上りたくない(笑)。

 

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ライド全体はこんな感じです。

20分パワーが213w出てたので、ガーミン先生の自動設定FTPは202wに。

この日の体重は52.6kgだったので、「PWR3.84w/kg」です。

 

今回のヒルクライムは楽しかったんですが、失敗はウエアですね(笑)。

ウインドブレーカー買わないと…。

 

私の場合は、基本的には「自転車を走らせるのが楽しい」ので、平坦でもヒルクライムでもその走らせる楽しさがあれば楽しいんですが、上記の通りに「自分の制御範囲内にあるか?」が関わってくるので、そこから大きく外れる場合は「楽しさ」が弱くなってしまいます。

 

平坦もヒルクライムも基本的な楽しさは同じになってしまうんですが、ヒルクライムは平坦と比較してある程度の時間は停まらずに走れるので(距離によりますが…)、ローラー台での20分走みたいに制御する楽しさが長く続くところがより楽しいのかもしれないですね。

 

ま、結局は「自転車を走らせるのが楽しい」んですが(笑)。

 

一般的には「足を着かないで上れた」とかでも「達成感」が感じられたら十分「楽しい」のかと思いますが、自分のギリギリ手の内にあるところで制御する楽しさもありますよー。

STRAVAのフィットネスについて

どうも、おっさんです。

 

ここのところ、月末の締め等でSTRAVAのフィットネスを取り上げていましたが、そもそも「フィットネス」の数値って何なの?ということを書いてみたいと思います。

 

簡単に言うと

 

フィットネス = 体力

 

ということです。

数値が上がると体力が上がるということになります。

体力が上がると言ってもまだ曖昧なので、さらに言うと

 

回復力が上がる

 

ということです。

私が実感していることなんですが、数値が40程度の頃までの40kmTTを走った日の就寝時は、「今日は良く走れたなぁ」というような心地よい疲労感がありながら眠りについていたのですが(笑)、最近は「あれ?今日は走ったっけ?」と思うほど(笑)疲労感がありません。

 

もちろん、走った直後や片付けの後にお風呂に入っている時には疲労感があるんですが、夕飯を食べてまったりしている頃にはほぼなくなっています。ただ、翌日に走ってみると、初めの1時間程度は高強度でも問題ないんですが、その後はだんだんと垂れてきます。これも、もっとフィットネス値が上がると変わってくるのかもしれませんね。

 

というように、フィットネス(CTL)が高いと「回復力」が上がるので、強度の高いトレーニングの時間を増やせるようになり、結果として「走力が向上する」ということなんですね。

 

実際にSTRAVAのフィットネスを見てみます。

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主に、赤丸部分がフィットネスが下がっている期間で、青丸部分がフィットネスが上がっている期間です。

 

昨年の12月から今年の2月までは全然乗れていなかったので当然フィットネスは下がります。今年6月後半からの梅雨時期も雨で乗れなかったので下がっています。

 

今年3月頃からはコンスタントに乗れていたのでフィットネスは上がっていき、5月辺りで一旦頭打ちになります。これは前に説明しましたが、それまでと同じ練習量を続けていると必ずどこかで頭打ちになるということです。なので、こうなった場合は練習量を増やす必要があります。

 

上で書いた通りに、フィットネス値が上がると「回復力」が上がるので、練習量を増やすことができるということを数値的に表している部分になります。

 

3~6月は感覚で練習量をコントロールしていますが、9月からはフィットネス値を意識して計画的にトレーニングしているので、頭打ちすることなく上昇していっているということがわかります。(ローラー台を活用して天候に左右されないということもあります)

 

グラフを見て気付くかと思いますが、フィットネスが下がっている時は薄い線が上に、フィットネスが上がっている時は薄い線が下にあります。この薄い線はSTRAVAでは「フォーム」ですが一般的には「TSB」と言われています。(STRAVAの「フィットネス・疲労・フォーム」は、一般的には「CTL・ATL・TSB」のことなので、詳しくは調べてみるとわかりやすいかも)

 

フォーム値は「調子」を表す値で、プラスだと「元気な状態」でマイナスだと「疲労が蓄積した状態」ということです。一般的にはマイナス20以下になると、過度のパフォーマンス低下の状態になって怪我をしやすくなると言われています。なので、私はマイナス20前後で1日休むことにしています。(数値がそれ以上だとしても疲れていると感じたら休みます)

 

プラスの時がパフォーマンスが高いということになるので、レースをしている人はレース当日にプラスになるように計画的なトレーニングをすれば自分のパフォーマンスを十分に発揮できるということになりますね。

 

とは言っても、常にプラスの状態では「練習不足」ということになるので、基本的にはフォームの線はフィットネスの線の下にあることがフィットネスの上昇に繋がるんですね。

 

各値を見ていくと理解しやすいので見てみましたが、これは単に疲労度や調子を数値で表しているだけの話で、別に数値がないと全くわからないことでもありません。

 

練習をして疲れていると感じたら休む、基本的には1日休めば回復すると思うので休んだ翌日はまた走る。それを繰り返していくうちに疲労感が薄くなってくるので、高強度の翌日も走ってみる。走ってみて途中で垂れたら翌日は休む。そういう繰り返しで回復力は上がっていくということです。

 

それを数値で見たら「フィットネス値が上がった」というだけのことですからね。

 

練習すると能力(走力)が上がるということはその状態に「慣れる」ということなので、練習をすればした分だけの「能力の状態」になるということです。速く走る練習をしていれば、自然とその状態に慣れていって速く走れるようになる。同時に、速く走れるようになるということは、その速く走るという状態に応じた体力が付くということで、これもまた自然と回復力が上がっていくという物凄く単純なことなんですね。

 

体重にしたって、練習を繰り返して速く走れる状態になっていけば、自然とその状態に応じた体重になっていく。「適正体重じゃないから速く走れない」んじゃなくて、「速く走る練習をしていないから適正体重にならない」のです。(そもそも食べ過ぎなのがダメなんですが笑)

 

あ、これまた誤解のないように言いますが、「速く走る必要のない人」は本人の走りたいように走ればいいので、上記の内容は当てはまりません。速く走る練習をしないと速く走れないわけなので、そういうことをやりたくない人は自身のそのままの能力内で走ればいいということですからね。

 

人によって適切なフィットネス値があるみたいですが、フィットネス値が高くなるほど回復力が上がって練習量を増やせることになるので、フィットネス値が高いほど速くなる為の「土台」が強くなるということですね。逆に、フィットネス値が低くなると回復力は下がってしまうので、練習量が増やせなくなり弱くなってしまうと。

 

練習を適度に繰り返して練習量を増やしていかないとフィットネス値は上がらないわけですから、コンスタントに練習をするということは「速く走る」という目的に対しては、当たり前のことだということです。