どうも、おっさんです。
今回は、おっさんが子供の頃のことを書きます(笑)。
前回の記事で、子供の頃の親から怒られる時の記憶が、大人になってからの行動に影響を与えるということを書きましたが、そう言われてもピンとこないという方もいると思うので、今回は私の体験から考えてみたいと思います。
唐突ですが、皆さん子供の頃のプールの時間って楽しかったですか?
私の記憶を辿って行くと、初めのプールの時間の記憶は保育園の時です。プールと言っても保育園のプールなのですごく浅い水溜まりみたいなやつで、基本的には入って溺れるみたいなことはないと思います。
が、私の記憶ではこのプールの時間が恐怖でしかなかったんですね。
怖かったので、その水溜まりみたいなプールに入ることはできなかったです。入ることができないので端っこに座っているんですが、先生がホースで水をジャバジャバかけてきます(笑)。私があまりにも怖がるので、それ以降のプールの時間はそういう水をかけたりされることがなくなりました。
小学校に上がっても水泳の授業があるわけですが、保育園である程度は水に慣れたからなのか普通に授業を受けることはできていました。でも、平泳ぎや立ち泳ぎは得意でしたが、クロールは苦手でした。何故だか息継ぎが上手くできません。どうやら、顔を水につけておくということが感覚的に「いやーな感じ」なんです。全くできないわけではなくて、嫌な感じがするんです。
ただ、それも段々と慣れてくると得意ではないにしても出来るようになっていましたし、四年生辺りからは夏休みのプール皆勤賞バリに通っていました(笑)。それでも、ずーっと水怖かったの「どうしてなんだろう?」と思ってはいたんですが、あるときに母親から聞いた話で「ああ!それだ!」と思ったんですよね。
私が赤ちゃんの時でまだ立ち上がれる前ですね、母親が洗濯をしていたそうです。昔なので二槽式の洗濯機なんですが、洗濯槽を回しながら私を脱水槽の蓋の上に置いておいたら、ちょっと目を離した空きに私は洗濯槽の中にダイブしたらしいんです(笑)。
母親は慌てて私の脚を掴んで引き上げたので大事に至らなかったのですが、その時の記憶が「水怖い」を引き起こしていたということですね(笑)。
私はこの話を母親から聞くまでそんなこと知りませんでしたし、もちろん保育園や小学生の時の自分の記憶にもなかったわけで、これがまさに無意識から渡される「意識」なんだということです。
その意識には「これこれこういう理由で」という部分は入っていないわけですから、受け取った私には保育園の頃は「恐怖」として、小学校に上がってからは「いやーな感じ」として感じられていたということなんですよね。(そもそも、このようなシチュエーションで渡される「答え」はフィーリングなので、快か不快かだけなんですが)
脳が「水」というシチュエーションに対して、「それ、前の体験と照らし合わせたら危険だよ」という「答え」を渡してきていたんですね。
でもそれだと、お風呂はどうだったんだ?と思うんですが、確かに頭を洗って流すときは怖かったような記憶があるんですが結構大丈夫でした。親が付いている状況なので安心しているからとか、温かいお湯だと大丈夫で水がダメだとかそういう細かい条件があるのかもしれないですね。
私が汗ダラダラが苦手なのも、これの所為かも?(違うか?笑)
というように、子供(特に低年齢)の頃の記憶というのは曖昧で、私みたいに乳児の頃は覚えていないのは当然ですし、そういう頃の生死に係るインプットというのは特に、理由が曖昧になっているということです。生死に係ることは瞬時に判断しないといけないので理由は必要ないですしね。
そして前回の記事でも書いたように、特にそのような頃の「親に捨てられるかも」というのは「生きていけない」のと同義なので、それをなんとかして回避しないといけない。
で、子供に出来ることというのは「親の言うことを聞く」ということなので、自分のしたいことを「がまん」して言うことを聞くわけですね。そうすると「良い子」と褒められて「親に捨てられる」ということを回避できて生存が安定する。
この一連のパターンのインプットと発動が多ければ多いほど強固な内部モデルが構築されて、同じようなシチュエーションになると発動しやすくなっていきます。そして、大人になってもこれの名残として「承認欲求」が発動しているわけなんですね。
「良い子」にしていないと「捨てられる」ので、良い子であろうとします。
それは、子供の頃は「親」の言うことを聞くことですが、大きくなるにしたがってそれが他人や社会になっていく。それによって、基本的な人の思考や行動は「より良くなる(成長)」のと同時に「今より下がりたくない(保身)」ということになっていくんですね。より良くなりたいのは、そうすれば生存がより安定する(生きるのに都合が良い)からで、今より下がりたくないのは生存が不安定になる(生きるのに都合が悪くなる)からです。(でも、これは思い込みなんですが…)
このパターンが上手くいっている時はいいのですが、上手くいかなくなると破綻します。
そもそも、「言うことを聞いている」という状態は、自分のしたいことを「がまん」している状態になっているのでストレスが溜まりますし、その「がまん」した結果が自分の望むモノでなかった場合、生存は安定に向かわないわけですから脳からは「不快」しか出力されません。
それに、「今より下がりたくない」は自らの失敗や他人からの批判で簡単に崩されてしまいます。
対象が親だったときは、「良い子」にすれば「褒められる」という結果がパターンとして成り立っていましたが、他人や社会は「良い子」にしていたとしても褒めてくれるとはかぎりませんし、その「良い子」になれない場合もあります。(目指す「良い子」に対しての実力が足りていない等、言ってみれば”理想”なのでなれない場合の方が多い)
このパターン自体が「不安定」ということです。
自分が「良い子」かどうかの判断を他人に委ねている(依存している)わけですから、望んだ結果がでるかどうかなんてわからないので当然ですよね。
私の「水怖い」は自然と解消されたのですが、これは水に触れる体験を通して脳が「あれ?実は危険じゃなかったね」と「水怖い回路(内部モデル)」を書き換え(上書き)ていったからです。同じように、「良い子回路」も元から発動しない場合もありますし、発動していても体験を通して書き換えられる場合もありますし、発動していなかったのに後に発動する場合もあります。
それに、「良い子回路」は社会全体がそういう状態になっているとも言えるので、発動していることが自然のようにも見えるわけです。それで社会全体が「より良くなる」可能性が高くなるので悪いことではありません。ただし、上記の通りに必ず上手くいくパターンではないので、上手くいかなかった場合は「苦しさ(不快感)」が発生するわけです。(その苦しさを避けたいから”がんばる”)
この「良い子回路」をロードバイクで例えると、私が良く言っている30km/hで走れるか走れないかみたいなシチュエーションのようなことです。
ネット上では「30km/hで走れて当たり前」と書かれていたりするんですが、それを見て「そうなんだ」と思ってやってみても、初心者の場合は心肺能力が低くパワーが足りないので30km/hで走り続けることはできません。ここから、「良い子」と褒めてもらう為に「がまん」して30km/hで走る練習をして走れるようになったらこのパターンは成功なんですが、多くの場合はそうなりません。
「がまん」して練習したのにちっとも30km/hで走れないとなると「良い子」になれず「褒められない」わけですから、脳は「不快感」しか渡してきません。段々とロードバイクに乗るのが楽しくなくなってきます。
でも、よく考えてみるとこの不快感って「危険だよ!」ってことですよね?
何が?というと「死ぬかもしれないよ」ってことです。
え?ロードバイクで30km/hで走れなかったら死ぬんですか?
おかしなことになってますよね?(笑)
でも、無意識なので気付かないんですよ。
ただ「不快感」があるだけなので。
無意識なので、「がまん」して「良い子」になって「褒められよう」としている感覚ではなく、単に「やらないといけない」という感覚になっているんですね。そうしないと生きるのに都合が悪いから。
っていう話です。
こういう話が理解できるようになってくると、初めは拒否感が生まれると思います。
「だって、そうやってがんばらないと成長しないじゃないか」
みたいな。
でも、その考えが浮かんできているのは「良い子回路」が発動しているからなんですよ。
日本代表スポーツ選手が大会で「楽しみたい」っていう発言をすると、「いやいや遊びじゃないんだから死ぬ気でがんばれよ」みたいなことを言う人がいますが、「良い子回路」が発動しているとやっぱりそういう発想になっちゃうんですよね。
どっちが良いとか悪いとかじゃないんですけどね。
違う世界もあるんですよーってことです。