おっさんの外部記憶装置

40代おじさんのブログ

受動意識仮説

どうも、おっさんです。

 

前回の記事

nicolarossi.hatenablog.com

で、「天才」も「凡人」も誰の中にも存在しているのだから、誰でも「天才」の可能性があるということを書いたんですが、たぶんほとんどの人がそれに対してこういう反応すると思います。

 

そんなこと言っても今現在「天才」じゃないのは事実じゃないか

 

と。

可能性はあるとしても、現在それ(天才)が出現していない事実を見ると「自分には可能性がなかった」ということでしょ?と。世間一般で言う「天才」を考えると、「何か偉大な功績を残した人」とか、もっと身近なところで言うと単に「スゴイ人」みたいな感覚で「既に出現している状態」のことを指す場合が多いです。

 

でも、その世間一般で「天才」と言われる人も、生まれた瞬間から「天才」ではないんですよね。世間一般で「天才」と呼ばれるまでの過程は存在するわけです。それは、実はみんな知っていてよく言われるのが「考え方が違う」という部分なんですが、考え方が違うから物事の進め方も変わってきてそれによって「天才」かそうじゃないかが分かれるということ。

 

つまり、その「考え方」が違う人が「天才」であるということです。

 

こう考えると「天才」という事象を決める重要な要素は、上で書いたような「結果」ではなくて「過程」の方だと私は思うんです。天才と変人は紙一重とかよく言われますが、これは「結果」だけを見て決まることが多いです。世間一般で認められると「天才」になるということですね。

 

でも、よく考えると「結果」が世間一般で認められても認められなくても、その人のしていることとか考え方とかが変質しているわけではないので、世間一般で「天才」と呼ばれようが呼ばれまいがその人の本質は同じなんですよね。

 

私はこういう風に「天才」を見ているので、世間一般で言われている「天才」とは捉え方が違うんですよね。なので、「誰でも天才」と言えるわけなんです。だって、「考え方」を今と変えたらいいだけなんですから。

 

その「考え方が違う」という部分なんですが、どうして違うのかというと「モノの捉え方が違う」からということです。モノの捉え方が変わると、自分のまわりで何かが起きた時の自分の反応も変わります。自分の反応が変わるので、その起こったことに対する「考え方」も変わるんですね。

 

このように、私と世間一般の「天才」のイメージは違っているので、「天才」という言葉を使うと違う受け止め方をされそうなんですが、以降も便宜上「天才」という言葉で行きたいと思います。上で書いているように、「考え方」が違うだけということは理解してください。

 

 

考え方の違いで見ていくと

 

天才は「主体的」

それ以外は「受動的」

 

ということになっています。

物事を「主体的」に捉えるか、「受動的」に捉えるかということですね。

 

この記事

nicolarossi.hatenablog.com

で紹介した一つ目の動画で、イチロー選手の言ったことが紹介されているのですが、「やってみてダメだとわかったことと、初めからダメだと言われたことは違う」ということなんですが、これも「主体的」か「受動的」かの違いを言っているんですよね。

 

二つ目の動画でも本質的な部分に触れながら解説されているので、そこを掘り下げてみます。

 

 

この動画の方が意識の仕組みを解説されている動画があるので、まずそれを

www.youtube.com

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この動画では、慶應義塾大学大学院の前野隆司教授が提唱されている「受動意識仮説」をベースに解説されているんですが、この方は自分の脳内イメージを整理している過程で前野教授の話を聞いて整理が進んだというだけで、人から聞いた話をただ説明しているだけではないということはわかっておいてください。

 

前野教授の解説動画はこちら

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同じように、私もこのような方の考えと同じような脳内イメージがあって、これらの解説によって脳内イメージの整理が進んだので紹介しているということです(笑)。面白いですね。

 

 

これらの動画を見ても「興味」がなければ頭に入ってこないし、頭に入ったとしてもそれは私が言っているように「人から聞いた話」でしかないわけなんですが(笑)。でも、この話の本質がわかると物事が比較的上手く進むようになるのは間違いないと私は思っています。

 

なので、私がこのブログで書いているロードバイクの話だけではなくて、人が生きていくうえでの活動全般に対しても有用な話なんだということなんですよね。

 

 

で、何を言っているのかということなんですが、私が前から言っている通りに人の思考や行動は「脳」が勝手に決めているということです。その「勝手に」という部分は、生まれてきてからの体験や学習によって脳内に蓄積されたデータを元に、脳がはじき出した「答え」を「私」という意識に受け渡しているだけなので、「勝手に」ということになります。

 

仕組み的に「意識」は「受動的」であるということですね。

勝手に上がってきた答えを受け取るだけなので「受動的」です。

 

その蓄積された脳内データを元に導き出されたのが「答え」であって「意識」なわけですから、重要なのはその蓄積された「脳内データ」ということがわかると思います。脳内データはそのデータ同士が結び付き合って「内部モデル」を構築します。この内部モデルによって自分のまわりで起こったことに対する反応が決まってきます。自動的に。

 

自動的にどこに向かっているのかというのは、私が言っている言葉では「生きるのに都合が良い方向」ということなんですが、それは人それぞれの脳内のデータとそれを元にした「内部モデル」で変わってくるので、それが人それぞれの個性になっているんですね。方向的にはみんな一緒なんですが、その進み方が違うということになります。

 

脳内データが重要なわけですから、データが蓄積されていく過程がその後の思考や行動に影響を与えます。基本的な部分は子供の頃に構築されるので、親家族や学校の先生の影響などが大きいということになりますね。

 

子供は一人で生きていけないので、親の存在が「生きるのに都合が良い方向」へ向かうのに重大な影響を与えます。怒られたりすると「捨てられたら生きていけないかも」という恐怖を感じるので「言うことを聞く」ということが「生きるのに都合が良い方向」だと脳内にインプットされます。こういうインプットが多ければ多いほど思考は「受動的」に傾いていきます。

 

子供にとっては重要な部分なのですが、大人は基本的には一人でも生きていけるのでそんなに重要な部分ではないなと思いませんか?でも、大人になると今度はそれを「社会」や「他人」に対しての反応として出してしまうんですよね。それは、よく使われる内部モデルは強固になって、すぐに意識に上がってきてしまうからです。そして、すぐに意識に上がってくる思考はその人にとって「普通の事」になるので、その元になっている脳内のデータや内部モデルが何なのかわからなくなります。(ていうか、ほとんどの場合は無意識なのでわかりません)

 

それが「承認欲求」なんですよね。

 

承認欲求による思考や行動というのは、「他人が自分をどう思うか?」が原動力となっているので「受動的」です。上で書いた子供の頃の生きるのに都合が良い方向のインプットは「言うことを聞く」なんですが、承認欲求の「他人が自分をどう思うか?」を気にするということは、結果的に「他人の言うことを聞く」ということになるので、単に言うことを聞く相手が親から他人や社会に変わっただけなんですね。

 

言っている通りに子供は一人で生きていけないので、その頃に「生きるのに都合が良い」としてインプットされた出来事は強烈に定着してしまいます。

 

人の育つ環境というのはそれぞれ違うので、脳内に蓄積されるデータも当然違ってきます。なので、「主体的」か「受動的」かの思考パターンはグラデーションになってくるので、人によってどっちに傾いているかも変わってきますし、どの状態でどっちが反応しやすいかも変わってくると考えます。

 

「言うことを聞く」という状態は、本来自分がやりたいことを「がまん」している状態なのでストレスが発生します。でも、「言うことを聞く」という状態は「生きるのに都合が良い方向」なので、「がまん」することで「生きられる」からストレスがありつつも「がまん」できるんですね。そうじゃないと「死」に近づいていくわけですから。思考がこんがらがっているということわかります?

 

ここから抜け出す方法が「主体的」な思考です。

 

 

緊急事態宣言が出された頃にTwitterを眺めていたらこんな感じのツイートがありました。

 

「ソロライドなら大丈夫だと考えている人がいる!」

 

まぁ、ここまでなら特に何も思わないんですが、続けて

 

「一般人が考えるサイクリングは5km程度だから、私たちが走る距離は異常だと思え!」

 

みたいなことを書いていたんですよね。(詳細はちょっと違うかも)

これが受動的思考です。

 

つまり、一般人から見て自分たちの行動は異常に見えるから自転車に乗ること自体を辞めろと言っているんですね。自分で何も考えていないとこういう思考がチーン!と意識に上がってきます。

 

私の考えで言わせてもらうと、この方は「がまん」しているんですね。一般人から見て自分のやっていることは異常だから、一般人がそう感じると自分は「排除」されて「生きるのに都合が悪くなる」、だから「がまん」しなければいけない。でも、それは「言うことを聞く」という状態なのでストレスが溜まる。

 

そんな中「ソロライドなら大丈夫だと思っている奴らがいる!」となると、その「がまん」しているストレスはそっちに向かうわけです。「俺はがまんしているのにお前らはムキー!」ってことです。

 

あと、他のサイクリストの評価は自分の評価と同義なので、その部分のストレスも溜まります。

 

これに対して

 

「正しく知って正しく行動することが大切」

 

とリプしている人がいました。

これは主体的思考です。

他人は関係なく、自分で考えて行動するとはこういうことです。

 

勘違いしてはいけないのは「他人はどうでもいい」ということではなくて、自分で今の状況を把握して正しい情報を得、正しい行動をするということです。その正しい行動というのは他人への影響も含まれるわけですから、「他人はどうでもいい」ということにはならないのです。

 

あ、別にソロライドが良い悪いを決める話ではないので、その辺お間違いなく。

自分で決めたら「がまん」する必要ないですよ?っていう話です。

 

このようなことからわかるように、受動的思考は「不自由」ということが言えるんですね。反対の主体的思考は「自由」なんです。主体的思考であれば「がまん」がいらなくなるのでストレスが溜まりません。

 

この、「言うことを聞く」という状態は「がまん」ということを、ロードバイク界隈の他の出来事にも当てはめて考えてみると面白いですよ。

 

例えば、「巡航30km/hは当たり前」とか「100㎞なんて簡単」とかを聞いて「そうしなくちゃ」って考えるのも「言うことを聞いている状態」なので、それをしている時は「がまん」しているということになります。「がまん」して30km/hで走ったり100kmの距離を走ったりしても「楽しくない」ですよね?それは「しんどい」だけでストレスが溜まります。

 

他にも「レースで良い成績を残せば仲間から一目置かれる」という考えも、「仲間の言うことを聞く」という状態なので練習中やレース中も「がまん」して走っていることになっているということです。

 

これらは「無意識」なので、そのおかしさに気付けません。

 

 

では、「主体的思考」へ傾けるにはどうすればいいかということなんですが、上に書いてある通りに自分で考えて行動するということです。でも、これは「受動的思考」に大きく傾いている人にとっては難しいんですよね。だって勝手に脳から渡された意識によってそうなっちゃうわけですから(笑)。

 

出来ることは、今回のような意識の仕組みを知るということと、それを知ることができれば意識は脳が勝手に渡してくるものということがわかるわけなので、その意識がどこから来たのか?を観察してみるということです。

 

「自分と向き合う」って本来こういうことだと思うんですが、意識の仕組みがわからないとその勝手に渡された意識を「自分」だと思い込んでいるので、そこと向き合ってるだけで何も解決しない。

 

こういうことを教える仕組みって必要だよなぁと思っているんですが、実は昔はちゃんと教えていたんじゃないかな?と考えています。それはまた別の話なので割愛しますが。