おっさんの外部記憶装置

40代おじさんのブログ

新世紀エヴァンゲリオンで見る、自分と他人。(ネタバレ注意)

どうも、おっさんです。

 

今日はクリスマスですね。

クリスマスはイエス・キリストの降誕祭ということで、キリストが生まれた日ではないそうです。

 

ということで(?)、今日はキリスト教を引用したアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」で見る、「自分と他人」について書いてみたいと思います。

 

新世紀エヴァンゲリオン」のネタバレが含まれますので、まだ観てない、観てみたいと考えている方は読まないほうが良いですよ?(笑)。それに、観てないと今回の話はさっぱり意味がわからないと思うので(観ていても意味がわからない可能性が大きいです笑)、それでもこの記事を読む方にはあしからず(笑)。

 

一応、観てない方も読むかもしれないので、「新世紀エヴァンゲリオン」がどういうアニメかの説明。

 

1995~1996年にかけて、テレビ東京系で放送されたSFアニメで、汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンに搭乗した14歳の少年少女が、要塞都市第3新東京市に襲来する「使徒(シト)」という謎の生命体と戦うという内容の物語です。

 

私は、深夜の再放送(毎週4話ずつのセットで放送されていた)でたまたま観て知って、その直後に放映された劇場版も観に行きました。ていうか、そもそもその深夜の再放送は劇場版の宣伝で放送されていたわけで、私はまんまと釣られたということです(笑)。たしか、今はなき渋谷のプラネタリウムがあったビルの劇場に観に行って、めちゃくちゃ人が並んでいるのを見て「人気があるんだ」と初めて把握したんですね(笑)。※調べたら、東急文化会館ですね。今はヒカリエがある場所。

 

本放送は視聴率があまり良くなかったらしいですが、制作予算と時間が次第に尽きてきて、その所為(?)もあって25話と最終26話では登場人物の内面だけにフォーカスした内容だったので、観ている方は訳がわからず「は?ふざけんな!」となり、抗議の声(?)と共に評価の声も大きくなり劇場版でちゃんと作りなおしたという流れらしいです。その劇場版も、本来は1997年春公開の1本で終わる予定だったのが、制作の遅れから春公開は物語の総集編部分と最終2話の作りなおしの途中までで、夏に最後までの部分が放映されました。

 

来年2020年に放映される最終作(?)までの一連の「新劇場版」もあり、それも旧劇場版と一部違うストーリー構成になっていますが(けっこう違いますけどね笑)、基本的には同じ内容です。

 

今回、私が書くのは旧劇場版までのエヴァの内容を元にしています。とは言っても、エヴァの内容を私なりに解釈したというよりは、私の考えを深めていくうちに「あれ?エヴァの話の内容や設定ってこういうことともとれるかな?」と思ったことになります。なので、別にエヴァの謎を解いたって話ではありませんし、私の解釈が正しいということでは全くありません(笑)。

 

エヴァの作者は庵野監督ですが、エヴァの物語の内容は「4年間壊れたまま何もできなかった自分の、全てが込められています」とのことなので、庵野監督自身がどのようにして立ち直ったか?ということが現れているのだということでしょう。

 

「じゃあ、俺壊れてないし立ち直る必要もないから、関係のない話だな」と思うかもしれませんが、そういうどん底ではなくても、日々のちょっとしたストレスやトラブルを避けるヒントになると私は思っています。

 

 

使徒はどうして襲ってくるのか?

 

第11話で主人公のシンジが「どうして使徒と戦うのか?」と疑問を呈します。

するとアスカが「訳の分かんない連中は排除するのが当たり前」と言う。

 

設定上は、第3新東京市の地下ジオフロントに張り付けにされた第2使徒リリス」(第1使徒アダムだと思われている)に接触する為にやってきていることになっています。

 

劇場版25話でミサトがシンジに使徒が何なのか説明します。

「私たち人間はね、アダムと同じリリスと呼ばれる生命体の源から生まれた、18番目の使徒なのよ。他の使徒たちは別の可能性だったの。人の形を捨てた人類の。ただ、お互いを拒絶するしかなかった悲しい存在だったけどね。同じ人間同士も。」

 

つまり、「敵」だと思っていた使徒も自分達人間と同類だったということですね。そして、同類だと知っている人間同士も「拒絶するしかなかった悲しい存在」だと言っているわけです。

 

アスカの「訳の分かんない連中は排除するのが当たり前」という言葉を見てみると、この「お互いを拒絶するしかなかった悲しい存在」というのは、「訳の分かんない連中」という部分が起点になっていると思います。

 

例えば、私が乗っているロードバイクで言うと、「車道を高速で走っている自転車に乗っている”訳の分かんない連中”は排除するのが当たり前」ということで、自動車ドライバーが幅寄せしてきたりするという状態のことです(笑)。そして、そういうことをする「訳の分かんない連中(ドライバー)」に対して「何しやがる!」となるわけですね。

 

同じく第11話で碇指令が「所詮、人間の敵は人間だよ」と言います。

これも「お互いを拒絶する」という部分にかかっていますね。

 

これは、入れ子状態になっていて、「人間 対 使徒」と「人間 対 人間」は同じだということが示唆されています。

 

どちらの状態も

 

「自分と他人」

 

ということを現わしているのだと思います。

「自分と他人」の戦いの話です。

 

 

使徒にも色んな使徒がいる

 

使徒は色々なパターンで攻めてきます。その形態も攻撃方式も弱点も様々です。それぞれの使徒にそれぞれの特徴があります。示唆通りに人間(他人)と同じですね。拒絶が激しい使徒もいますが、人間とコミュニケーションをとる使徒も現れます。最後の使徒である「渚カヲル」ですね。カヲルには第1使徒アダムの魂が宿されています。

 

カヲルの存在は「理解できそうな他人もいる」ということを示唆しているのではないか?と思います。ただ、物語の中では「使徒(敵)」だとわかった途端にシンジは「裏切ったな!」となり、結果消してしまいます。

 

カヲルの言葉で「生と死は等価値」とありますが、これは表面上の「生と死」というよりも、自分と他人の中での「生と死」だろうかな?ということです。これは次で。

 

 

・問題のTV版第25話と第26話

 

「わけがわからない」最終2話です(笑)。

この2話は「人類補完計画」を登場キャラクターを使って表しています。

 

人類補完計画とは「欠けた心の補完」です。

それぞれの人の心を一つにして永遠のやすらぎを得る。

それぞれの人の欠けた部分を、それぞれみんなの心で補完する。

これが人類補完計画です。

 

ミサトはこう言います。

「他人が勝手に人の心を一つにまとめるのは余計なお世話。ただの慣れ合いでしょ。」

 

しかし、リツコはこう返します。

「だけど、あなたもそれを望んでいたのよ。」と。

 

これ、意味が分からないかもしれませんが、例えば、私が言っている「寛容であるべき」というようなことを他人に要求する人でわかります。

 

「寛容であるべき」という考えは個人としてはあっても全然構わないと思います。だって人それぞれ考えがあるのですから。でも、それを周りの人や社会全体に対して「寛容であるべき」というのは、考え方の強要でしかありません。あらゆることに対しての寛容か寛容でないかは、それぞれ個人の判断で決められることではないでしょうか?

 

これは、ミサトが言っている「他人が勝手に人の心をまとめるのは余計なお世話」と言っている通りのことです。

 

しかし、社会のほとんどの人はこれを意識せずにやってしまいます。

なので、リツコの言う通りに「それを望んでいた」となるのです。

 

他人に対して自分と同じ考え方を要求するということは、「その人の心を自分の心とまとめたい」ということになってしまいます。

 

これが、「欠けた心の補完」ですね。

 

ここで、カヲルの言葉「生と死は等価値」を見てみます。

これは、肉体の「生と死」というよりも、人間関係での「生と死」ではないかな?と考えます。

 

どういうことかというと、この第25話でシンジに対して「どうしてエヴァに乗るのか?」という質問が投げかけられます。シンジは「みんなの為だから」と答えると、アスカが「それは自分の為でしょ?」「他人の為に生きているんだって思っている」と言います。

 

つまり、シンジは「他人の為にエヴァに乗る」ことによって「生」を感じているが、それは結局自分の為だということです。他人から幸せを与えられることを「生きる喜び」だと感じているんだと。では、他人から幸せを与えられなかったらそれは「死」なのでは?

 

対して、カヲルは「生と死は等価値」だと言います。加えて「自らの死、それが唯一の絶対的自由なんだよ」と。この「自らの死」というのは自殺ということではなく、シンジと対で見るならば「他人から幸せを与えられることない」状態と見ることができます。つまり、他人が自分に幸せを与えるかどうかなどという、他人任せな「幸せ」に縛られていない状態なので「絶対的自由」だということです。

 

要は、「生」と「死」のどちらも自分にとっては「幸せ」だと言っているということですね。

 

例えば、クラリスやソラに乗っていると「ダサい」と言われる、などということを気にしている人は、他人に「カッコイイ」と言われるか「ダサい」と言われるかで、「幸せ」か「幸せじゃない」かが決まってしまう人だということです。

 

ダサいと言われると傷付くので、「そんなこと言うなよ」と言ってしまいますが、それも「欠けた心の補完」行為なのですね。

 

 

・ちなみに、この人類補完計画は間違い

 

どうして間違いかというと、結局シンジは「心の補完」をやめて元の「欠けた心」の人間に戻ったからなんですが、実はミサトの言う通りに「他人が勝手に人の心をまとめる」ということ自体が間違いなんですね。だってミサトの言う通りにそんなのイヤでしょ?(笑)。

 

自分の行動は自分で決めるというのが「自由」で「幸せ」だからです。

 

カヲルは理解できるかもしれない「他人」として登場しましたが、その理解できるかもしれない他人こそが自分の目指すべき自分なのでは?

 

 

・他人本位ではなく自分本位で生きるのが幸せということ

 

結局は、私が前から言っている、他人がどうかではなくて「自分がどうか」で決めましょうという話です。

 

 

などと、わけのわからないことを言っていますが、全部私の妄想なので真に受けないようにしてください(笑)。