どうも、おっさんです。
このタイトル見てどう思います?
「人間とツバメは意思疎通できないから、そんなの当たり前じゃん」
というところでしょうか?
でも、前回書いた通りに、ツバメに巣を作ってほしくなかったら、巣作りされそうなところに細工して巣を作れないようにすることもできます。そしたらツバメは「ここには作れないな」と考えて別のところへ行くでしょう。
ツバメに「巣を作るな」と要求したということです。
でも、ツバメは人間に対して「どうして巣を作らせてくれないんだ!」とは要求しません。
まぁ、ツバメは単に「ここには作れない」と思うだけですからね(笑)。
というように、「生きる」というエネルギーがぶつかり合ったら何らかの変化が起こるということですね。
「フリッパーズ・ギター」の2ndアルバム「CAMERA TALK」に「全ての言葉はさよなら」と言う曲があります。この曲の中のフレーズに…
「分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ」
とあります。
私が初めてこの曲を聴いたのが高校生の頃なので、その当時の気持ちはよく覚えていないのですが、その頃からずーっとこのフレーズが頭の中に残っています。なんとなく「寂しい」感じがするのですが、これが「現実」だよなという風に感じていたのではないかな?というところです。
どの位の人がそう思っているのかわかりませんが、一般的には「話せばわかる」「分かり合える」ということを前提として人と人は触れあっているのではないかな?と思います。
なので、このフレーズのように「分かり合えない」と言われると、拒否反応を示す人もいるのでは?
前回の記事で書いたように、「どうして寛容になれないの?」と言っている人はこの「分かり合える」ということを前提に話をしていると私は考えます。
でも、私は基本的には「分かり合えない」ということを前提として考えているのです。
それは、今まで書いてきた通りに「それぞれのエネルギー」が出会った場合に、それは必ず「ぶつかり合って」しまうからです。人はそれぞれ「違う」のが当たり前だからです。
ところが、「どうして寛容になれないの?」と考えている人はそれがわかりません。人は分かり合えると思っているし、自分の考えに「みんな」賛同してくれると考えているからです。
どうして「みんな」賛同してくれると考えいるかというと…
「自分の考えが正しい」
という考えがあるからですね。
あ、誰でも自分の考えに沿って行動することが良いとは私も考えているのですが、この場合の「自分の考えが正しい」というのは、自分以外の誰にとってもということです。
つまり、社会全体で見た場合に「自分の考え”こそ”が正しい」と思っているということです。
しかし、私がこれまで書いてきているように、人やその他の生物、宇宙のすべての事象を含めて、それぞれのエネルギーの形態があるわけで、どれか一つが「正しい」ということにはなりません。それぞれのエネルギーの形態というのは単なる「可能性」に過ぎないと考えます。だから、「それぞれ違う」わけです。
もう一つの視点で言うと、「分かり合える」という考え方は
「分かり合いたい」
という欲求から出てきているとも考えられます。
「分かり合いたい」から「分かり合える」と思っているということです。
この「分かり合いたい」というのは、実は…
「(自分を)分かってほしい」
ということなのでは?と私は考えます。
つまり、承認欲求です。
結局は、自分のことを分かってほしいだけなのでは?ということです。
「分かり合える」ということを前提で人と接している人は、現実問題で分かり合えなかった時に
「どうしてわかってくれないんだ!」
という「感情」が起こります。
「分かり合うのが」前提なのでそうなりますよね?
それって「ストレス」になっているということです。
でも、「分かり合えない」ということを前提で人と接している人は、たとえ分かり合えなかったとしても
「まぁ、元々分かり合えないんだからしょうがないよね」
となって、それは大したストレスにはなりません。
このように、「分かり合う」のが前提の人は他者に対して「要求」するようになります。本人は「要求」しているつもりはないのかもしれませんが、「どうして私の事をわかってくれないの?」「どうして〇〇してくれないの?」という考えで頭が支配され、他者に対して「要求」している状態になってしまいます。
「どうしてもっと寛容になれないの?」というのもこれですね。
自分と他人は「違う」んですよ。
みんな本当は知っていると思いますよ?