おっさんの外部記憶装置

40代おじさんのブログ

抑圧と権力から逃れるのが自転車という趣味?

どうも、おっさんです。

 

今日は、某レビュー系サイトのブログで「抑圧と権力から逃れている自転車という趣味」という記事があったので、それを読んだ感想でも書いてみようかと思います。(直接リンクは貼りませんが、タイトルはそのままなので検索すれば見られると思います)

 

まず、「義務教育における体育の目的」について書かれているのですが、それは「権力に対して従順な主体をつくる」こと、つまり「兵隊をつくる」ことだという主張でした。

 

この見方は、ある意味間違ってないと私は思います。

ただ、この「兵隊」という位置は大人になって社会生活をする上では普通にあることです。

多くの人が、どこかの会社に就職してそこの「兵隊」として働くわけですからね。

体育に限ってのことではなく、学校という集団生活の場自体がそういうところです。

そういう社会構造への反発なんでしょうかね?

(支配されることへの反発?でも、組織って大体そういうもんでしょ?)

 

そして、主さんは「体育の授業が嫌いだった」と言っています。

「体育が嫌い」という人は一定数いるようです。

 

スポーツ庁が平成29年度に運動が「好きか・嫌いか」という調査をしたところ、小学5年生で「9.6%」が、中学2年生で「16.3%」の子たちが「嫌い・やや嫌い」と回答したそうです。この結果から、スポーツ庁では成人後の生活習慣病等の対策の為に、運動嫌いを少なくする活動を活発化させていて、中学生の「16.3%」を半分の「8%」にすることを目標に活動していくそうです。

 

この活動に対して「余計なことするな」という声がネットで見られたりもしました。

(嫌いで何が悪い!ということらしいです)

 

そもそも、運動を嫌いになるのはどうしてなのか?という疑問。

よく聞いてみると、運動が嫌いなのではなく「体育が嫌い」ということらしいです。

理由として挙げられているのが

 

「人前で恥をかかされる」

「他人に迷惑をかけるから」

 

つまり、自分は他人と比較して「出来ない」からということですね。

そこから連鎖して、

 

「出来ないと罵倒される」

 

というのもありますね。

私、40代のおっさんで、それこそ「根性論」がまかり通っていた昭和の時代の子供なんですが(笑)、体育の授業で出来ないからと言って「罵倒」されている場面なんて見たことないんですが、そんな学校あったんですかね?本当にあったとしたら、それはダメなんでそういうのは直さないといけない点ですけどね。

 

私は小学5年生の時に、学校のクラブ活動の時間にサッカーを選択してたんですが、6年生でサッカーが上手い子がいて、多分その子は自分より下手な子たち(私たちの学年の子とか)と一緒にやってもつまんなくて、不真面目にしていたんですよ。そしたら担当の教師がその子に対して「真面目にやれ!」って怒ったというのはありました。そういう、逆の場面なら見たことあります。

 

「罵倒」されるとかいう部分を除いたら「人前で恥をかかされる」や「他人に迷惑をかける」って結局は

 

自分の内面の問題

 

ではないでしょうか?しかも、ネガティブ思考の。

私なら「恥をかかないように」とか「迷惑かけないように」と頑張りますけどね?

(そもそもそんな風に思ったことないですけどね)

 

というと、「やっても出来ないんだよ!」って言う人いますよね?

おそらくですね、こういう人って大きな勘違いをしているんですよ。

 

「他人」と比較して出来ないから自分はダメ

 

これ、完全な間違いです。

そうじゃなくて

 

「自分」が出来るかどうか(やるかやらないか)

 

です。

しかも、上手い人と自分を比べて「ダメ」と思っているんですね。

(あとは、標準以上じゃないとダメとか)

 

私が散々言っている「承認欲求」の問題です。

 

「恥をかく」「迷惑かける」っていうのは、「自分はこう思われているんだ」という内面の問題だと思いますよ。その裏には「他人にこう(良く)思われたい」という「承認欲求」があります。でも、出来ないことをみんなに知られるとその「他人に良く思われたい自分」が崩壊してしまうので、そういう比較されるような場面が「嫌い」なんですね。

 

体育の授業というのは「比較」という部分が表に出やすい(見てすぐわかりますからね)し、思春期の頃は余計に運動が出来るか出来ないかを気にする時期でもあると思うので、そういう「他人から見ての自分」に対して敏感なんだと思います。

 

スポーツ庁が力を入れていくなら、そういう部分のフォローは必要でしょうね。

ただ、それを大人になってからも引きずっているのは、相当「承認欲求」を拗らせているのだと思います。

 

「体育が嫌いだったけどジムへ行くのは大好き」みたいな、大人になってから運動の楽しさに気付いたという人がいます。それは、「体育」はやらされているから嫌だったけど、「ジム」はやりたいと思ってやっているから、みたいなことだそうです。

 

私はそれ違うと思います。

 

結局これも「承認欲求」の問題で、体育は学校のクラスという集団に属して、その中で「優劣」がわかってしまうのでそういう場面にいたくないから「やらされている」と感じているだけなのでは?「ジム」だと利用者同士は基本的に他人ですし、「優劣」の場に立たされることもほぼないので、他人比較での「承認欲求」は刺激されにくいです。

 

例えば、もしその通っている「ジム」で利用者全員強制参加の公開テストを行うことになったら、こういう人はその「ジム」を辞めたいと思っちゃうんじゃないですかね。

 

あと、「ジム」はトレーナーが「褒めてくれるから」いいみたいな意見も見ました。

これも、「承認欲求」ですね。

褒められると「承認欲求」が満たされるからです。

 

このように、「抑圧と権力から逃れている自転車という趣味」という記事の中身は、全部「承認欲求」で説明できる内容です。私が思ったことを言わせてもらうと、

 

承認欲求が満たされない状態 = 「抑圧」

承認欲求を満たしてくれない場面 = 「権力」

 

という風に置き換えているだけですね。

この置き換えはちゃんと成立します。

でも、それを作り出しているのは「自分自身」なんですね。

全部、自分の「脳内」で作り出しているだけです。

 

この方「筋トレ」しているそうなんですが、

 

筋肉にも個人差があってある程度以上の筋量を得られない体質の人がいる。

個人差があるから筋トレは裏切ることがあるし平等でもない。

でも、レースじゃない自転車趣味(組み立てやメンテやただ走らせる部分)は裏切らない。

 

だそうです。

私が上で説明している通りに「承認欲求」を拗らせすぎだと思います。

 

私が思うのは、筋肉に個人差があろうがなかろうが、自分の努力で「鍛える」ということが一番重要なことなんじゃないの?ということです。なんでこの方は「他人」と比較して筋量が少なかったら、そのことがイコール「裏切り」になると思ってるのか?(「筋肉は裏切らない」という言葉への反語というのはわかります)

 

それはやっぱり「他人と比べた自分」が「他人より高くないと意味がない(ダメ)」という意識があるからですよ。なのに、こういう人は何故か「他人と比較される場」に出ることを嫌がるんですよね。しかも、そういう「他人と比較される場」に居ようとしている人をあまり良く思っていない節もあります。

 

他人と比較される場に居ようとする人も「承認欲求」に動かされている人です。

ただ、この場合の「承認欲求」はポジティブな部分が大きいです。

積極的に「他人との比較」に参加しているわけですからね。

「向上心」がある人たちと言えます。

 

私は、そういう「向上心」がもたらされる「承認欲求」の方がいいと思いますけどね。

同じ「承認欲求」から生まれた行動なのになぁ。

 

もう一つ。

「抑圧」の部分で、中学校の「丸刈り強制」についても触れていました。

教師の恣意的な判断で「丸刈り」にせざるを得ないということ。

確かに、生徒の判断で好きに出来ないですから、自由を奪われて「抑圧」されています。

 

私の体験談を話しましょうか。私の地元の中学校も「丸刈り強制」でした。で、私はそれが「イヤ」だったので、私立中学校を受験して合格しました。その結果「丸刈り」にしなくて済みました(笑)。

 

家庭の事情なんかも絡んでくることなので、私の行動をみんなが出来るわけではありませんが、結局のところ「自分で考えて行動」することが大切なのでは?日本は別に独裁国家ではないのですから、やろうと思えば自分の行きたい方向へ進めると思いますよ。(日本で「権力」がどうのこうの言ってる人は、一度独裁国家で生活してみてはいかがでしょうか?)

 

私は体育は得意な方でしたが、それ以外の授業は得意ではありませんでした(笑)。でも、頑張って勉強して私立中学校に入って「自由な髪型」を謳歌させてもらいました。(とは言っても金髪とかはダメですけどね笑)中学生ぐらいの子供にとって「髪型」って重要ですよね。だって、「承認欲求」を満たす道具なんですから。

 

「自分はこういう髪型の人間でありたいんだ!」

 

と「承認欲求」を爆発させるわけです(笑)。

まぁ、モテたいですししょうがないですよね。

(髪型でモテるわけではありません笑)

 

ほら、やっぱり「抑圧」というのは「承認欲求が満たされない状態」でしょう?

言ってるように、学校というのは多かれ少なかれ「承認欲求」を抑制される場なんですよ。

「承認欲求」の抑制を勉強する場と言い換えてもいいかもしれませんね。

 

とかいっている、今の私の髪型は「丸刈り」です。(笑)

なんであんなに「丸刈り」がイヤだったんだろうと思います。

そういう部分の「承認欲求」が解けたというわけですね。

まぁ、おっさんですから思春期とは考え方も変わって当然です。

 

最後に、この主さんは「自転車趣味は平等で開かれた趣味なんだ」的なことを言って締めていますが、残念ながら人間は生まれながらにして「平等」ではありません。

 

平等だったら私の身長が164cmなわけないし(笑)。

私のFTPが180wなわけもありません(笑)。

 

「平等」を勘違いしている人多いですが、社会的な参加への「機会」が平等なだけであって「能力」や「考え方」等は平等ではありません。主さんが言っているような「自転車のメンテナンス」のようなことでも、「知識」が備わっていないと「優劣」が発生します。(主さんは「自転車のメンテナンス」に関しては他人より出来ると思っているのでは?という推測)

 

その「優劣」を自分の中でちゃんと処理できない人が、「平等」という幻想へ傾倒してしまうのではないかな?と私は思うのです。